中沢道二「道二翁道話」を読む(十五)

(岩波文庫の原文を現代語訳しています)

「道二翁道話二篇巻下」

「まず今日の日がとてもありがたいものだということを、一つ一つ身に立ち帰って考えてごらんなさい。一日をひもじい思いもせず、寒い思いもせず、雨露にも濡れずに暮らすことができるというのは、大変ありがたいことじゃないか。天下泰平の御恩、この上に何があるか。このありがたいことを知らず、目が開くとあれが欲しいこれが欲しいと、ポンポンするのはみな火傷をしているのじゃ。その火傷が積もり積もって火宅の苦しみ、だからこそ、日々の火傷のうちに早く治されるのがよい。さてこの話は、以前に本当にあったことで、ある賢い人から聞きました。これは現在では「無間(むげん)の業(ごう)」という、とてもありがたい話でございます。下京あたりにあった話ということでございます。嫁と姑と仲が悪いのは世間にいくらでもあることだが、これはよっぽど珍しい仲の悪いのじゃ。といって、子供はあり逃げるにも逃げられず、いるにもいられず、苦しみ通し、日々の業が積もり積もってますます仲が悪い。朝から晩まで双方からの責め合い。それゆえ二、三日も田舎に帰ってみても、二人の子供がかか様かか様とあとを慕って泣き叫ぶ。子供たちに責められ戻ってみれば、婆さまに責められ、盆も正月も節句も亥の子も休みなし。互いに責めつつ責められつつ、七月十六日でもここの家は休みなしに火宅の苦しみ。死ぬにも死なれず、どうもこうもしようがないと言って、一、二年のうちに死にそうな婆さまでもない。これが世に言う金槌婆さまというものじゃ。世間に親殺しだとか、主人殺しだとかがあるのは、前世の敵同士の報いなどと言うけれど、そのようなことでもない。性は善なり。悪いということは誰もが知っているけれど、互いに立ち帰るということができないのじゃ。そのために腹の中に日々チリやホコリが積もり積もって、このハアスウハアスウ。そのところを仏様は因縁とも因果とも言い、聖人は天命と言って恐れるのだ。みな善悪ともに因果に寄ると言って、腹の中からおいでおいでして招き寄せたのじゃ。だからこそ、悪い者とは付き合わないようにして、できるだけ心を清浄にして、日々新たに戦々恐々と、恐れ慎むのが子孫長久の御祈祷じゃ。さてこの嫁は逃げるにも逃げられず、死ぬにも死なれず、どうもこうもしようがないようになってきた。そこで怖いものじゃ。婆さまを殺してしまう気になった。婆さまを殺せば親子四人が助かると心を決めた。恐ろしいものじゃないか。飼い犬に手を噛まれるとはこのこと。家臣が君主を殺し、子が親を殺すというのも一朝一夕のことではない。苦しみに苦しみを重ね、迷いに迷いを重ね、無間地獄の底に落ちてしまっては、壁の中に塗り込まれたようなもので、後へも先へも行けなくなる。これは他人事ではありませんぞ。嫁姑ばかりのことでもありませんぞ。みなあなた方の腹の中にあることじゃ。ポンポンが過ぎるといろいろ様々なことが起こる。駆け落ち、一家離散、心中身投げ首くくり、みなふいふいと出来心、大事なことじゃ。心中する人の田舎というのがあってどこかに村があるものでもない。盗人の生じる国というのがあって盗人ばかり仕込んでいる国もあるものじゃない。みなあなた方の腹の中に、ちょっとずつ持ち合わせがある。日々に新たに慎みがないと、ついふいふいと出来心によって道を踏み外すことになるので、常々心得なければならない。気をつけないといけない。人がいない家に忍び込めばどうにも気味が悪い。これは業の持ち合わせがないからじゃ。腹の中に少しでも業の持ち合わせがあると、よいところに来たと思ってしまう、大事のことじゃ。今の(巻上の)間男もその通り、夫の留守の家に行ったら、すぐ戻ればよい。女房も自堕落、ちょっと炬燵におあたり、炬燵にあたったばっかりに命取りとなってしまった。これが無間地獄の釜こげと言って、犬も食べやしない。恐ろしいことじゃ。互いに業が積もり積もってのことじゃ。嫁や姑を殺す気になったのも、初めはわずかなことからじゃ。不返事が火宅の始まり。」

「よしの川其の水上を尋ぬれば葎(むぐら)の雫(しずく)萩のした露(つゆ)(吉野川の水源を尋ねてみれば、草々の雫や露であった)」

「初めはわずかな露しずくから、後には船を出しても渡ることができない大河となる。怖いことじゃ。嫁は一途に、どうか人に知られないように殺したいものだと、いろいろ考えて仲の良い医者のところへ行って、どうか私に毒薬をくださいませ。医者がそれを聞いて、それは大変なことじゃが、まあ一体何に使うのか。そこでその嫁がこうこうこういうわけでと一部始終のわけを打ち明け、恥ずかしいことながら親子四人が助かることでございます。どうか人助けだと思って毒薬をくださいませと言う。医者もため息をつき、それは気の毒なことじゃと、しばらく考えていたが、なるほどわかりました。そういうことなら毒薬を出しましょう。しかしわしが言うことをよく聞きなさい。天命の生ある人を、私事の恨みをもって殺すときは、そのかわりにあなたの身に報いが返ってきて、子供が死ぬとか、あなたが気違いになるとかしないといけなくなるだろう。それも気の毒なので、三十日の間、あなたは修行をしなければならなくなる。それでもよろしいか。それも難しいことじゃない。ただ婆さまに一言も口答えをしてはいけない。たとえ無茶苦茶なことを言われたとしても、ただハイハイと素直にして、ちょっとでも腹を立てさせてはいけない。この三十日の間に、あなたの一生分の孝行をまとめて勤めなければならない。それができるか、ハイハイいやもう婆さまさえ死んでくださることなら、三十日はおろか、五十日でも百日でも勤めましょう。おおよしよし、それさえできれば心配はない。もう今日の帰り道から土産でも買って帰って婆さまのご機嫌を取られることだ。コレ何を言われてもハイハイじゃぞ、わかったか。仮にも腹を立てさせてはならんぞ。ハイハイかしこまりましたと言って立ち別れ、さて帰り道にて、婆さまのお好きなおやきを買って冷めないようにふところへ入れて温めながら家に帰る。婆さまが中で待っている。戻ったら何かしら言ってやろうと思っているところへ、嫁はいつもと違い、ニコニコして帰ってきた。婆さまただいま帰りました。これはお土産でございます。温かいうちにお召し上がりくださいませと差し出せば、婆さまは怖い顔をして竹の皮包みを引ったくり、この物価の高いときに、そんなふうにお金を使ってもらいたくない。そのお金で大根菜でも買えば明日の昼のおかずになるのに、ああ世間知らずなことだと、しかられてもただハイハイばっかり。御夜食をあげる時間になれば、茶もはんなりと入れて、その片手に婆さまのお好きな胡瓜みそ、酒をたっぷり使ってこしらえ、さあおあがりなさいませ。婆さまはじろじろ見て、こりゃなんだい、こんな贅沢なもの、食べたければこっちへ来なさい、こちらはいつもの通りの漬物の刻んだので結構ですと、膳棚からガタガタと引き出し、夜食を食べて、またたばこ盆を引き寄せて一服しだす。嫁は子供の食事を済ませて、そろそろ片付け、ほんとうに婆さま一日そのようにしておられて御退屈でございましょう。ちょっと御肩をさすってあげましょうと、そろそろ撫で回る。おおコレ何をするか。そのようになどしてもらわんでも大丈夫じゃ。嫁はハイハイと言うばっかりで一言も口答えをしない。美しいものじゃ。御明(仏壇のろうそく)を上げたり、線香を立てたり、婆さまの着物をたたんで、子供を寝させ、片付け回り、婆さまもうお休みなさいませんか、御寝間の準備をいたしましょうと、一番暖かなところへ布団を敷いて、さあお休みなさいませ。婆さまはいつもと随分勝手が違ってきて、おいおい何をするか、こちらはまだ寝床を世話してもらうほどではないぞと、布団を引っかぶってごろりと寝る。嫁はハイハイと言って裾を押さえたり叩きつけたり、枕元へたばこ盆に火を入れ、枕屏風を引き回し、ちょっと御足をさすりましょう。イエイエわたしはどこへも行きはしない、何にもだるいことはないぞ。ハイハイ。たかが三十日、何とでも小言をおっしゃるがいい、あと三十日で鬼婆思い知れと。心の中では思っても、うわべは随分大切にするのも我が身の怖さじゃ。さて翌日の朝も早くから起き、飯ごしらえをして、奥から玄関まできれいに掃き出して、婆さまもう御起きになりませんか、婆さまはいつもは寝床からやいやい言っていじめにかかるのに、今夜は寝過ごしてびっくりして目を開き、嫁に先を取られ、そこらを見回しても何にも言うことがない。それで、ハイ今朝は頭痛がするけれど起きなきゃならん、起きましょうと、ぐずぐず起きて顔を洗う。その間に嫁はちゃんと飯ごしらえ。いつものところへ座布団を敷き、たばこ盆に火鉢も準備して、陣取って待っている。婆さまは顔を洗ってから何か見つけて言ってやろうと思っても、何にも言うことがない。さて拍子抜けなものじゃ。苦々しい顔をして、めしを食う。嫁は婆さまの給仕を済ませ、棚も閉じて髪を撫で付け、婆さま私はちょっと妹のところへ行って参ります。婆さまは一つ調子を上げて、どうぞご勝手になさいませ。ハイハイと言って、嫁はまた医者のところへ行って、昨日からの次第はこうこうこうと、詳しく話をすれば、医者は聞いて、それでよしよし。さて薬をこしらえておきました。これを飲ませなさいと。きれいな重箱にあん餅を二、三十入れて、この中に毒薬が仕込んである、急に効き目がわかるようにすると目立って悪い、自然と病気になって死んだようにしないと後で噂が立つ。昨日も言った通り、たかが三十日の間なのだから、あらゆることに婆さまが満足されるように精一杯心を尽くし、後で後悔しないように、一生懸命孝行をしなさい。コレ何を言われてもハイハイじゃぞ、わかったか。ハイハイかしこまりました。何から何まで大変お世話になり誠にありがとうございますと、重箱を提げて家に帰り、婆さまただいま帰りましたと言っても、婆さまは怖い顔をして知らんぷりしている。婆さまの顔が鬼のように見え、持っているキセルが鉄棒のように見える。ここが大事なところじゃと、手をつき、これは妹のところから、あなたに差し上げてくれと言われてもらったものです。ちょっと召し上がってくださいませと、差し出す。婆さまもまんざら悪い気はしないから、引き寄せて一つ二つ食べて、あとは仏壇の下に入れて置かれる。嫁はサアしてやったと喜び、それからなおさら心を尽くし気を付け、その後は毎日毎日色を変え品を変えて、土産物にかこつけて、退屈されているときには、酒のお酌をしたり、あるいは茶をはんなりと入れて餅を焼いたり、庭へ降りられると、草履を直し杖をあてがい腰をかかえ、三度の御飯は、何なりと婆さまのお好きなものをこしらえ、これも多く作ると気に入らないので、少しずつこしらえて、機嫌を取り、寝起きには撫でさすり、ハイハイと言って介抱するもので、さすがの婆さまもまったく出番がない。こりゃ何事じゃ。このようにされては何にも腹を立てる手がかりがないようになって、何にも用がない。仕方なく仏壇で仏さまばっかりいじっておられる。お経を読みながらも、どうやらこの前から拍子が違って何だか気味が悪い、ハテ合点がいかぬ。あの嫁には、何か取り憑いているんじゃないかと、不審に思いながら見ていても、毎日毎晩の介抱は足りないところもなく、親切に気を付けてくれるので、どうやら悪く言う者は、自分ばっかりのようになってきた。そこで婆さまも尻がくすぐったいような気持ちがしてきてよくよく考え、ハテ不思議なことじゃ。あの気が利く様子では、あの人に何にも悪いことはないが、どうしてわたしはあの人が憎いのかと、そろそろ目が覚めて本(もと)へ立ち帰りかける。さあここが大事なところじゃ。地獄の罪人も鉄の格子が消えるときがある。これから成仏の段じゃ。このとき婆さんの本心の光明がちらりと初めて顕(あらわ)れかけて、ありがたいことじゃないか。「傀儡師胸にかけたる人形箱仏出そうと鬼を出そうと(人形つかいが胸にかけた人形箱からは、仏も出てくるし鬼も出てくる)」そのままじゃ。嫁は一途に、三十日の上限が決められているので、いよいよ張り切って孝行に励む。婆さまはいよいよ恥ずかしくなって、ハテ心得ぬ、あの嫁のどこが悪いのか、どう見ても悪いことは少しもないのに、これまでなんで憎んでいたのか。よくよく考えてみれば、いかにもわしはとんでもない罪人じゃ。末期の水を汲んでもらうのも、あの人より他にはいない。そのうえかわいい息子に連れ添う大事な嫁を、憎んでいたとは何事かと、コロリと考えが入れ替わった。ありがたいものじゃないか。性は善なり。人々は自分自身に貴いものを持ち合わせているけれど、大事なお月さまを黒ん坊が隠した。向こうへばっかりポンポンポンポンして立ち帰ることを知らないのは、みな黒ん坊のしわざじゃ。婆さまの本心の光が出てくると、よくしたものじゃ。今度はそろそろ婆さまの方から嫁のご機嫌を取るようになった。コレあなたもこの寒いのにチャッチャと済ませて、早く炬燵にあたりなさいな。嫁はハイハイわたしは何にも寒いことはございません。婆さまが寒いときにお冷えになられたら、御持病が悪くなりましょう。婆さまがイヤイヤわしはこの間からだいぶ心持ちがよくなった。心配してくださるなと嫁姑のむつまじさ。貴いものじゃ。嫁の心は嘘じゃけれど、形(身体)の勤めが本物なので、婆さまは心がほかほかしてきて、次第次第に嫁がかわいくなってきた。それからけちん坊の婆さまが、自分の入れ物にしまいこんでいたものを、嫁にやったり食べさせたり、正直なものじゃ。嫁は何を言われてもハイハイハイハイ。私は若い身体のこと、婆さまは御不自由のないようになさってくださいませ。イヤイヤそういうことじゃない。年寄りが物を蓄えて何になるかと、婆さまは段々心持ちが面白くなって、気が乗ってきて、タンスの引き出しからも色々なものを取り出し、コレあなたの下着がもうヨレヨレではないか、これをまあ着なさいなと、惜しげも無くずっかずっか。婆さま急に大器になられた。よくしたものじゃ。心持ちさえ嬉しくなると、何にも欲はない。みな心のことですぞ。心さえ満足すればそのまま極楽。」

「足納(たんのう)をするとせぬとの胸の中地獄もあれば極楽もあり(満足をするかしないかによって、胸の中は地獄にもなり極楽にもなる)」

「この頃は婆さまの顔つきがニコニコと嬉しそうになってきて、嫁の顔色が悪いのを心配して、コレあなたはこの間から何だか顔色が悪いじゃないか、どこも悪くはないのかね。今病気になってしまわれると、子供たちの難儀はまあ大したこともないが、わたしは大体迷惑には思わないけれど、食事も味がしないのであれば、何なりとこしらえてあげますから、身体に気をつけてくださいよと、本物の我が子のように嫁がかわいくなって、後には田んぼも畔もやろうかということになってきた。さてつまらないのは嫁じゃ。胸算用ががらりと変わって、これはまあどういうことかと、まったくわけがわからなくなってきた。ハテ不思議なことじゃ。あの婆さまには何か取り憑いているのかもしれぬ。あんまり不思議で合点がいかない。これまでははえぬきの鬼婆さまのように思っていたが、この頃の様子では世間にもよっぽどまれな仏婆さまじゃ。あの婆さまを殺そうとはまったくもってとんでもないことだ。よくバチが当たらずに済んだことじゃと、嫁もまた目が覚めてきた。ありがたいものじゃ。」

「雲晴れて後の光りと思うなよ、もとより空に有明の月」
「よいものを生まれつきには持っているけれど、みなポンポンにかすめ取られる」

「これがよくしたもので、初めは嫁の心の中には婆さまを殺す気があったのが、身体の行いが孝行のしわざであることによって、婆さまが仏になられたものじゃ。これでよくご理解なさいませ。口でどのように言っても、心がどのように思っても、身体に行わなければ役に立たない。なんでも身に勤めなければ利益がない。朝夕自らがなす行いが大事じゃ。」

「何事のおはしますかはしらねども忝(かた)じけなさに涙こぼるる(何が
いらっしゃるのかはわからないが、ただありがたくて涙がこぼれる)」

「今度は嫁が本当に目が覚めてきて、こりゃこうしている場合ではないと、すぐに医者のところへ走って行った。もしもしどうか婆さまが死なないような薬を早くくださいませ。医者がこれを聞いて、それはどうも合点が行かない。三十日間と引き受けたものを、まだ二十日にもならないのに一体どうしようというのか。イエイエどうのこうのはございません。あの仏様のような婆さまを、お恨み申したのは一体どういうことかと、どうか先日からの毒薬が消えるようなお薬を早くくださいませ。医者はこの様子をとくと聞き、それならあなたは婆さまを殺す気はもうないか。とんでもないとんでもない何の嘘を申しましょう。医者は涙をはらはら流し、でかしたでかした。よくまあその心になってくださったのう。心配することはない。何にも毒は入れておらぬ。あなたの突き詰めた心から殺そうとまで思い詰められたのは、よくよくのことであったのだろうが、しかし双方に怪我のないようにできないかと、いろいろ考え、ある賢人にこのことを尋ねたら、それは一大事のことができるかもしれないと、このようにこのようにしてみよと、指図によってその通りに進めたが、うまくいって、お互いにおめでたい。なおこの後が大事であるから、気をつけて大切に孝行を続けなさいと互いに喜び、心も溶け合って、その医者と今でも仲良くされていると聞きました。このような恐ろしいこともあるものじゃ。しかしありがたい話でございます。この医者が賢人であったので、両方に怪我がなかった。そうでないとどのようなことが起こったかわからない。怖いことじゃ。これでよく考えてごらんなさい。よいことは嘘(内心とは別)でしても極楽は本物、また悪いことは嘘でしても罪は逃れられない。嫁姑のことばかりじゃない。あなた方の身の上にも、このようなことは色や品を変えて、いくらでもあることじゃ。たとえ向こうからどんな無理非道を持ちかけられても、たかが三十日の気になって、向こうの望み通りにしてさえやれば、三十日かからないうちにうまく相済むものじゃ。それを勤めてもみずに、どうのこうの、どうのこうの、文句ばかり言って、無駄な時間を費やして苦しむ。わけもないことじゃ。またどのようにしても仲が直らないのは、やっぱりこの方の腹の中の鬼のしわざじゃと、諦めなさった方がよい。この嫁のように、よいことは嘘でしても極楽は本物となる。そのかわり悪いことは嘘でしても、地獄は本物じゃ。わたしは嘘で盗みをいたしました。心にはさらさら盗みをする気はありません。と、どのように言い訳をしても、罪を逃れることはできない。首はコロリ。だからこそ、この真実と虚妄の二つをよく明らかにしなければ、天地の間に、身を置くことはできない。ゆえに道は一瞬でも離れるべきではない。一瞬一瞬に心を用いなければ、いつの間にやら無間(むげん)の業(ごう)が積もり積もって、」

「気もつかず目にも見へねどいつのまにほこりのたまる袂(たもと)なりけり」

「うかうかしているうちに袂にくそが溜まる。わずかな手の出し入れに、赤い袂のくそや、黒い袂のくそや、千歳茶の袂のくずや、いろいろ様々。心中身投げ首くくりのくそが溜まる。恐ろしいことじゃ。無間の業とは、この出る息引く息に溜まる袂のくそを、吟味することでございます。腹の中から本心が、そりゃうそじゃ、やめとけやめとけと言ってるけれど、何となく理屈をつけて、身体の勝手の方へ引きつけるので、いろいろ様々の袂のくそとなる。だからこそ、離れるべきものは道にあらず、と言うのでございます。」

(以下私見)
「清く明るく正直に生きる」神道の、あるいは日本人の生きる道がこの話に見事に表現されているように思える。。思い起こせば私も若い頃からつい最近まで、我を張ったばっかりに、どれだけの人のご機嫌を損ねてきたことか。。まあまた今日から、まっさらになって生きていく。。またチリやホコリが溜まることがないよう、日々気をつけないといけませんな。。

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