水島新司氏の死

 漫画家の水島新司氏が今年の1月10日に死去したと、一週間後の17日に公表された。2020年12月1日付で、漫画家引退が発表されてからわずか一年後のことである。私は元来漫画を頻繁に読むほうではなく、また、漫画方面の知識や実情を知る者ではない。大雑把に言うと、関心がない。水島氏の作品について言えば、数多く知ってはいるのだが、実際に読んだことのあるものは『ドカベン』シリーズと『あぶさん』のみである。いずれも、数年前まで雑誌連載された作品であり、平成生まれの私にとって手に届きやすい作品である。
 『ドカベン』について言えば、『あぶさん』のような青年向きの作品と比べれば、私に限らず、誰にでも手に取りやすい作品である。まずは普通の柔道漫画として始まった『ドカベン』の主人公は、小柄でずんぐりむっくりとした体格の持ち主である。それは周知のことであるが、野球部に転部するにあたって務めたポジションはキャッチャーであった。だいぶ昔のことになるが、水島氏が出演したテレビ番組を見た時であった。そこで水島氏は、連載当時にキャッチャーを主人公にした野球漫画の前例がなかったといったようなことを言っていた。だいぶ昔のことなので、正確にはどのように言っていたかは覚えていないが、大体においてはそのようなものであった。ピッチャーとは正反対にキャッチャーは陰のような存在である。防具を身につけ、マスクを被り、ピッチャーが投げる球を黙々と捕るポジション、それがキャッチャーである。同時に信頼の置けるバッターであるとはいえ、先述の通り、小柄でずんぐりむっくりとした体格であって、いかにも主人公としては見栄えが悪い。それが主人公としては敬遠される理由であるように思われる。
 だが、水島氏は主人公らしくない主人公をあえて設定したように思われる。他のチームメイトと同列であるかのように見える。むしろ、他のチームメイトのキャラクターさえも際立っている。主人公らしくない主人公とは書いたが、言うまでもなく、それは没個性的であることを意味しない。ただ、主人公には不向きなだけである。水島氏は、主人公を様々な関係のなかに据えようとしたのだと思えてならない。とはいえ、最後に試合を決めるのは、結局は主人公なのだが。
 最後に試合を決めるのは、結局は主人公と書いたけれども、そこに至るまでの試合経過は非常に濃密なものである。それは『ドカベン』に限ったことではないが、『ドカベン』の場合、水島氏の膨大な草野球経験によって裏打ちされているように思われる。ピッチャー(もしくはキャッチャー)とバッターとの駆け引きといい、グラウンドにいるすべての選手の動きといい、いわゆる「ルールブックの盲点」といい、いずれも情報だけではない実際の試合経験がない限り、描写できるものではないであろう。何年か前に、「フライボール革命」という言葉がメディアを賑わせたこともあったが、あくまで戦術上のものであって、技術的なものではないにもかかわらず、あたかも技術的なものであるかのように受け取る風潮があった。技術的なものとして受け取るのは、実際に試合経験のない人達であるように思えてならなかった。今では「フライボール革命」という言葉すら聞かれなくなったが、誤解されて受け取られたことによる弊害がなかったとは言えないであろう。
 弊害の例について言及することはしないが、水島氏は、個々の選手の技術的な部分もだいぶ強調して描いている。シンカーの投げ方や秘打、悪球打ち、通天閣打法等々枚挙に暇がない。いずれも識者の嘲笑を買うようなものに思われそうだが、水島氏の野球経験から出た可能性としての野球技術とでも言うべきかも知れない。
 『あぶさん』は、酒飲みの強打者がプロ野球の舞台で活躍する作品であるが、四十歳を過ぎてから全盛期を迎え、六十二歳で現役引退するといういたって現実離れした展開になってしまっている。これには、舞台となったパシフィック・リーグの不人気といった事情もあって、連載を継続させなければならなかったこともあるのだろうが、選手のみならず、球団を支える裏方にもスポット・ライトを当てた、これも主人公を様々な関係のなかに据えようとした作品であると言えるであろう。
 私はほとんど読んだことがないのであるが、『野球狂の詩』の女性選手について言及したい。今となっては、女性の野球選手は珍しくなくなったが、この作品が書かれた1970年代頃においては、極めて斬新なものであった。確かに、1950年頃の数年間に女子プロ野球リーグがあり、その後もアマチュアの組織もあったが、この作品で描かれているのは、男性選手のなかにおいての女性選手の活躍ぶりである。ゆえに斬新であったのである。当然、男女間の体力差はあり、他の数多の野球漫画がそうであるように、この作品の内容も絵空事のように思われそうである。だが、水島氏は現実に即したように描こうとしている。実際にプロの選手にもアドバイスを求めたようであるが、起用法にしろ、能力にしろ、決め球にしろ、それほど不自然さはない。その内容に賛否はあると思われるが、水島氏は可能態としての野球選手を提示しただけであるのは言うまでもない。
 ならば現実態はどうか? それは、二十一世紀まで待たなければならなかったのは周知の通りである。実際に現れたのは、『野球狂の詩』のキャラクターに似たようなタイプの選手であった。その意味で、水島氏の試みは、あまりにも先取りしていたと言うべきである。
 水島氏の作品は精神主義から解放されているといったように思われる向きがある。だが私には、知・情・意といったような三要素が偏りなく等分に程良く絡み合っているように見える。私のような立場の者がなぜ野球漫画のことにあれこれ口出しするのかと思われそうだが、詳しい事情はあえて控えたい。とにかく、野球漫画における良い意味でのエポック・メイキングを成した水島氏の功績を讃えると同時に、その悲報を惜しむのみである。

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