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四宮正貴「大久保利通の『非義の勅命は勅命に非ず』論」(遺稿/『維新と興亜』第6号、令和3年4月)

大久保利通は「天朝奉護、皇威を海外に灼然たらしむる」ことを願った
 大久保一蔵(後の利通)は、慶応元年九月二十三日付の西郷吉之助(後の西郷隆盛)に宛てた書状に、「若し朝廷これ(注・長州への再征伐)を許し給ひ候はば、非義の勅命にて、朝廷の大事を思ひ、列藩一人も奉じ候はず。至当の筋を得、天下万民御尤もと存じ奉り候てこそ、勅命と申すべく候へば、非義の勅命は勅命に非ず候ゆゑ、奉ずべからざる所以に御座候」と書いた。
さらに、二十二日の朝には、大久保は中川宮(幕末から明治初期の皇族。伏見宮邦家親王の第四王子)に対し、「朝廷これかぎりと、何共恐れ入り候次第」と言上したといふ。(『朝彦親王日記』)
 西郷隆盛への書簡中の「非義の勅命は勅命に非ず」といふ言葉について、「大久保は冷徹なマキャヴェリストであり、吉田松陰のやうな天皇仰慕の心・情念は無かった」といふ批判がある。
 また、藤田覚氏は大久保の言葉を踏まへて「遵奉されない勅命を出すまでに至った孝明天皇と朝廷の権威は、落ちるところまで落ちた」(『幕末の天皇』)とまで書いてゐる。さらに、毛利敏彦氏は、「勅命それ自体に、物神崇拝的に価値を認めるのではなく、(注・勅語を)『天下万民』の意向の下位においたリアルな思考方法に真にも、注目すべきである」(『大久保利通』)と論じてゐる。
 小生も、「大久保利通は、各藩の合意を得、天下万民が御尤もと存じ奉らない勅命は勅命ではないと言ってゐる。これは臣下として正しい態度ではない。勅命が正義であるか否かは誰がいかなる基準で判断するのか、勅命よりも天下万民の意志を尊重するのか。大久保の考へ方は、『天命に背いた皇帝は退位させるのが正しい』とする支那の『易姓革命思想』と相通ずる危険なしとしない。かかる考へ方を、それこそ天下万民が持つやうになったら、天皇を君主と仰ぐ日本国家は崩壊する。自分の意志や思想と一致する天皇を尊ぶことなら誰にでもできる。しかし、自分の意志や思想と異なる行動をされた天皇に対しても忠義を尽くし従ひ奉るのが真の尊皇であり勤皇である。それが『楠公精神』である」といふ批判を抱いた。
 しかし、この問題を考へるには、その時代背景を知る必要がある。第一次長州征伐が終り、一時的に徳川幕府の権威が高まった時期の慶応元年(一八六五)二月初旬、老中・阿部正外・本荘宗秀の両名が幕兵三千を率いて上洛、長州藩の保護下にあった三条実美などの公卿や長州藩主の江戸招致を図った。そして長州が応じない場合には将軍自ら長州を再征することを布告した。彼らはこれを機に、幕府専制権力の回復を意図したのである。そして五月十六日を長州再征のための将軍進発の日と決めた。
 しかし、尾張徳川藩をはじめ親藩を含めた諸藩には、財政難やこの上の内戦が外国の介入を招く危険があるとの見地からこの強硬策に慎重論・反対論が強かった。
 大久保利通も、「長州は恭順の意を表はし、二家老の首まで差しだしてゐるのに再び長州を攻めるとは大義に悖る」といふ反対意見を持ってゐた。
 大久保利通は、慶応元年七月の町田久成に宛てた書簡で、「天下の人心征長を諾せず…名に背き義に戻り天時人事にそむき候て勝利を全うし候例、古今和漢未だ聞かざる所なり」と書いて、幕府の第二次長州征伐は必ず失敗すると断言し、薩摩藩は、「富国強兵の術、必死に手を伸し、国力充満、たとえ一藩を以てすとも、天朝奉護、皇威を海外に灼然たらしむるの大策に着眼」しなければならない、と述べてゐる。大久保は「非義の勅命は勅命のあらず」といふ言葉を発したことはあっても、天皇・朝廷に背き奉る意志は全くなかった。むしろ、「天朝奉護、皇威を海外に灼然たらしむる」即ち天皇国日本の眞姿を明らかにして日本国の独立を守るといふ意志を示したのである。

大久保利通は何故「非義の勅命は勅命のあらず」と書いたのか
 慶応元年(一八六五)九月二十日、禁裏御守衛総督の任にあった一橋慶喜(徳川慶喜)が幕府代表となり、京都守護職・松平容保、京都所司代・松平定敬を伴って長州再征の勅許を奏請すべく参内した。この三人を「一・会・桑」と言ふ。
 その直前の九月十六日に、兵庫開港を求めて英・仏・米・蘭四国の軍艦九隻が兵庫沖に集結してゐた。内憂外患交々来ると言った状況であった。
 一橋慶喜は、長州再征の願ひを朝廷が受け入れず、勅許が得られないのなら、自分は禁裏御守衛総督を辞職し、松平容保は京都守護職を、松平定敬は京都所司代を辞職する意思があると朝廷に言上した。つまり外国軍艦の攻撃があっても幕府は朝廷をお守りしないといふ一種の恫喝である。朝廷は致し方なく、九月二十一日、長州征討(第二次長州征伐)の勅許を与へた。
大久保利通は、「長州再征」の勅許が幕府・一橋慶喜の強請によるものであることを、正室が島津斉彬の養女・貞姫なのでの薩摩藩と近い関係にあった内大臣・近衛忠房から聞いて知った。
 大久保の言ふ「非義」とは、孝明天皇の大御心が非義であるとしたのではなく、徳川幕府側の強請によって下された勅許のことを非義としたのである。
 同じ西郷隆盛宛ての書簡で大久保利通は、「既に今日に至て、朝廷内外の御大事、若処置を失はれ候ては、恐れ乍ら勅を奉ずる道も之無く、王家の衰威顕然に候」(朝廷が国難の時期において、その処置を誤れば、天皇のご命令を奉ずる道もなくなり、皇室の威厳が衰退することは明らかだ、といふ意)。「(注・徳川幕府側の朝廷に対する不遜不敬の言動は)朝廷の微弱を蔑視し、暴威を以て不遜不敬の語を発し悲嘆奉り候次第、天下有志の者悲憤切歯せざるは之無く候。」と書いた上で、「若し朝廷これ(注・長州への再征伐)を許し給ひ候はば、非義の勅命にて、朝廷の大事を思ひ、列藩一人も奉じ候はず。至当の筋を得、天下万民御尤もと存じ奉り候てこそ、勅命と申すべく候へば、非義の勅命は勅命に非ず候ゆゑ、奉ずべからざる所以に御座候」と書いたのである。
 大久保はさらに同じ書簡で、「全体、幕府進発する趣意尽く朝命に反し、剰さへ参内の節、朝廷を軽侮し奉り候始末、天が知る所にて、誰か是を憤らざるべきや。勿論御当地より大坂辺は、下匹夫に至る迄、幕府を悪む事甚だしく、進発に付ては、最初尾老公(尾張藩主・徳川慶勝)、越老公(全越前藩主・松平春嶽)、藤堂侯(津藩主・藤堂高猷)、伐長の不可を名義判然建言にも相成り候。」と書いてゐる。この大久保利通の文章全体を讀めば、大久保の尊皇精神が切々と訴へられていることは明白である。
 大久保利通の「非義の勅命は勅命に非ず」といふ言葉ついて永井路子さんは、「この言葉は有名だ。最近の大久保論に必ず登場し、この大胆さに注目して、この時点で彼は公家政府(天皇を含めて)を見限った、という説も出てきている。ここでも言葉の皮を剥いておきたい。大久保の念頭には、六三(文久三)年の長州追放の折の天皇の言葉があったと思う。そのとき天皇は言っている。『これまでのものは自分の本意ではない。これからのものが、真の本意だ』と。大久保は暗に、――勅命とはこんなものですからね。と言っているのではないか。現在はこの大久保の言葉は、後の天皇が神聖化されてからの感覚で受けとめられている。後になればなるほど天皇批判はタブー化し、不敬罪として捕えられる。しかし言葉というものは使われた時点、環境の中に置き直してみつめる必要があるようだ。」(『岩倉具視・言葉の皮を剥きながら』)と論じてゐる。
 永井氏の言ふ「文久三年の長州追放の折の天皇の言葉」とは、文久三年八月十三日の「攘夷親征討幕」を目的とした「大和行幸」中止(注・所謂「八月十八日の政変」)の際の、孝明天皇の「お言葉」の事である。孝明天皇は、性急に幕府を打倒しようといふ「攘夷親征討幕」の計画には反対であられた。
 孝明天皇は、孝明天皇は所謂「八月十八日の政変」直後に、右大臣・二条斉敬などに宛てた宸翰で「三条初め暴烈の所置深く痛心の次第、いささかも朕の了簡採用せず、その上言上もなく浪士輩と申し合わせ、勝手次第の所置多端、表には朝威を相立て候などと申し候へども、真実朕の趣意相立たず、誠に我儘下より出る叡慮のみ、朕の存念貫徹せず、實に取り退けたき段、かねがね各々へ申し聞けおり候ところ…三条初め取り退け、實に国家のために幸福、朕の趣意相立ち候ことと深く悦びいり候こと」と仰せになった。さらに、孝明天皇は、文久三年十一月十五日付の島津久光に宛てた宸翰で「八月十八日前の勅諚事は、前文の如く実に以て真偽不分明に候間、不審の儀も候はゞ、真偽の処一々尋貰度候」と仰せになった。
 永井路子氏さんはこの事実を踏まへて、大久保利通は「第二次長州征討の勅命も、孝明天皇の大御心ではない」といふことが言ひたかったのであらうと主張してゐるのである。
 坂本龍馬も、慶応元年十月三日付の池田蔵太あての書状で、「二十一日、一会桑暴に朝廷にせまり、(長州)追討の命を請ふ。朝を挙げて、是に恐れ許す。諸藩ささゆる者なし。ただ薩独り論を立たり」と書いて、一会桑を厳しく批判した。

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