西村眞悟「天皇を戴く国 「天皇を戴く日本」を見抜いた三人のフランス人」(『維新と興亜』第9号、令和3年10月)
我が国の根源的な強靱さ
これから、本「維新と興亜」誌に、拙文を連載させて戴くことになった。そこで、冒頭、読者諸兄姉に、自己紹介のつもりで、お断りしておかねばならないことがある。それは、先ず、私西村眞悟は無学である、それ故に、学問的にではなく直感に基づいて書くということだ。そして我が視線の対象は、日本民族の血(民族生命)、即ち日本民族の起源と歴史と伝統にある。何故なら、民族の血を見つめることなく、普遍的で根源的なものを実感することはできないと思うからだ。
従って、LGBTとかジェンダーフリーとかヘイトスピーチとか、英語かカタカナで表現すれば分かったつもりになる現在日本の一部の風潮を嫌悪している。同時に、我が日本における「維新」とは何かを悟らずに、大阪府を大阪都にするという功利主義的現状変更が維新だと吹聴することは、軽佻浮薄を示す恥だと思っている。以下、私の問題意識の概略を記しておく。
歴史の浅い国のことではなく、我が日本における「維新」とは、徹底的な「復古」でなければならない。昭和十六年一月、哲学者の西田幾多郎は、天皇陛下に御進講して次の通り語った。
「歴史は、いつも過去・未来を含んだ現在の意識をもったものと思います。ゆえに私は、我が国においては、肇國の精神に還ることは、ただ古に還ることだけではなく、いつもさらに新たな時代に踏み出すことと存じます。復古ということは、いつも維新ということと存じます。」
即ち、「復古」がいつも「維新」であるということは、日本民族の歴史と伝統のなかに普遍的で根源的な力の源泉があるということだ。しかも、その「古」は、遙か昔に過ぎ去った過去の時点にあるのではなく現在の我らと共にある。従って、「日本的革命」といえる明治維新とは「王政復古の大号令」(慶応三年十二月九日)であり、それはまさに現在において「諸事神武創業之始まりに原く」ことであった。これは即ち、悠久の神話の世界(古事記・日本書紀)との連続性の自覚である。これが、我が日本の再生と近代化への原動力だった。そして、これからの日本再興を促す力の源泉である。
このように、現在の世界の近代国家のなかで、二千年を遙かに超える古に還って近代化を開始することができる国は、日本だけだ。その理由は、日本だけが、一神教のキリスト教に征服されなかった唯一の近代国家であるからだ。他の諸国、つまり欧米諸国は、キリスト教によって古の「神話の記憶」を奪われている。ここに、我が国の人類史における歴史的使命がある。それは、欧米諸国が世界を支配した近現代において普遍的だとされていたものが個別的なものとなり、個別的だと思われていたことが普遍的になる歴史的転換をなし得るということだ。今、世界は西暦を使っている。それは、イエス・キリストが生まれた時を元年とするもので、現在は、イエス・キリストが誕生してから二〇二一年という訳だ。しかし、日本には、神武天皇の創業から数える皇紀があり、現在は皇紀二六八一年である。この西暦と皇紀といずれが普遍的でいずれが個別的なのか。本稿においても近現代の慣例上西暦を使うが、日本人は皇紀が普遍的だと言い切れる民族であると言っておく。キリスト教の一神教世界は普遍的ではなく個別的であり、キリスト教が滅ぼした多神教の世界が個別的ではなく普遍的である。
我が日本は、明治維新を経て二十世紀に入り、近世に世界を征服した西洋文明圏の国々と自存自衛の為に戦い続けた。即ち、帝政ロシアとの日露戦争、第一次世界大戦そして大東亜戦争(第二次世界大戦)を戦った。そして振り返れば、これは、まさに人類文明の歴史的転換の為に戦っていたのだ。従って、二十世紀が幕を閉じる時には、この二十世紀の我が国の戦いは、アジア・アフリカ諸民族のキリスト教圏による植民地支配からの解放と欧米世界の人種差別撤廃という結果をもたらしていた。そして、いよいよ二十一世紀においては、我が国の神武天皇創業之理念である「八紘為宇」そして明治維新の理念である五箇条の御誓文にある「万民保全の道を拓く」が、普く世界諸民族の共存共栄の理念にならねばならない時を迎えたのだ。
二十一世紀においても、共に一神教世界同士の闘争といえる「テロとの世界戦争」(Global War on Terrorism)と「共産党独裁国家中共との闘争」が続いている。そこで、これらを終息させる思想は、何か。それは、二十世紀と同じだ。つまり、我が国が太古の肇國の時に掲げた「総ての人々は一つの家に住む一つの家族である(八紘為宇)」そして明治維新において再確認された「万民保全の道」ではなかろうか。何故なら、これが普遍的で根源的な価値であるからだ。つまり、世界を一神教以前の神々の世界に戻すことである。「偉大な結果をもたらす思想とは、常に単純なものだ」(トルストイ)と言われる通りだ。そして、我が国の根源的な強靱さは、太古からの神話に発する天皇を戴く共同体として現在に至っている点にあることを、二十一世紀においても、さらに自覚せねばならない。
日本は神話と歴史の絆を維持する「普遍的な世界」
そこで、この日本に遭遇したキリスト教圏内の三人のフランス人の言葉を紹介したい。一人は、関東大震災の時に日本にいたフランス駐日大使で詩人だったポール・クローデル(1868年~1955年)、もう一人は社会人類学者クロード・レブィ=ストロース(1908年~2009年)そして作家でド・ゴール研究所初代所長であり平成二十五年(2013年)に来日して伊勢神宮の式年遷宮を目の辺りに観たオリビィエ・ジェルマントマ(1943年~)。
ポール・クローデルは言った。
「日本においては、超自然は、自然と何ら異なるものではない。……日本の天皇は、魂のごとく現存している。……根源の時と、歴史の有為転変を貫いて、国民に恒久不滅を印づける存在なのだ。」
クロード・レブィ=ストロースは書いた(同氏著『月の裏側 日本文化への視角』)。
「かくかくの影響を外国から受けるまえから、あなたがたは一個の文明を持っておられた。すなわち、『縄文文明』を。それを多の何に比較しようとしても出来るものではない。ここから私はこう云いたい。『日本的特殊性』なるものがあり、それは根源からしてあったのだ。そしてそれが外部からの諸要素を精錬して、つねに独創的な何物かを創りあげてきたのだ、と。……われわれ西洋人にとっては、神話と歴史の間に、ぽっかりと深淵が開いている。日本の最大の魅力の一つは、これとは反対に、そこでは誰もが歴史とも神話とも密接な絆をむすんでいられるという点にあるのだ。」
オリビィエ・ジェルマントマはフィガロ紙に「伊勢の聖夜」と題して次のように書いた。
「闇と沈黙のなか、女神アマテラスを聖櫃に奉じ、これに生絹を掛けて神官の群れが粛々と運んでいく。生きとし生けるものの起源そのもののシンボルが、いま、眼前を通り過ぎていく……この景観に、我らの小我の殻など、微塵に吹っ飛んでしまう。一月以来、すでに伊勢神宮参詣者は一千万人に達したという。さらに増加の一途をたどるとか。東日本大震災により、抑えがたき自然の猛威にさらされて、どこから己を取り戻すか、日本人が自覚していることの何よりの証拠である。森羅万象の諸力を崇敬するという伝統維持であり、そこに日本的ジェニー(天才)はあるのだ。」
これら三人のフランス人は、實によく「天皇を戴く日本」を見抜いている。フランスと日本の違いは、彼らにおいては「神話と歴史の間にぽっかりと深淵が開いている」のに対し、我が日本においては「歴史と神話は密接な絆をむすんでいる」ことである。では、この「深淵が開いている」のと「密接な絆をむすんでいる」のとどちらが普遍的なのか。明らかに、前者は特殊であり後者が普遍的であろう。
従って、クロード・レブィ=ストロースの「日本的特殊性」なる言葉は「日本的普遍性」に訂正されなければならない。即ち、西洋は、キリスト教という一神教によって神話と歴史が切断された「特殊な世界」であり、日本は神話と歴史の絆を維持する「普遍的な世界」なのだ。そして、この「特殊な世界」が十六世紀初頭から「大航海時代」を開始し、二十世紀には、世界をほとんど掌中に入れていた。しかし、我が国は、キリスト教に征服されない唯一の近代国家として、欧米列強の前に立ち上がり、これからの人類の理念を示したのだ。
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