小野耕資「誠の人 前原一誠 ②高杉晋作とともに国事に奔走」(『維新と興亜』第16号、令和5年1月号)
※前号までのあらすじ
佐世八十郎(前原一誠)は、落馬で足を悪くした陰気な青年だったが、二十四歳の時に松下村塾に通い吉田松陰に触れる運命的な出会いを果たす。松陰からは「誠実人に過ぐ」と評され、頼山陽『日本政記』を読めと言われる。しかし師松陰が老中間部詮勝襲撃を計画して捕まる。松陰は獄中から弟子に立ち上がるよう檄を飛ばすが、八十郎は日和って藩からの長崎留学の懐柔に乗ってしまい後悔する。やがて松陰刑死の知らせが八十郎に届く―。
松陰の志に報いよ!
松陰の死は松下村塾門下にとって大きな衝撃であった。
「哀慟至極」
そう手紙に送った通り、八十郎も深い悲しみの中にいた。しかし、メソメソしているだけではダメだ。
「先生の志に報いなくてはすまないではないか!」
そんな心がふつふつと湧き上がってきたのである。
それは他の松下村塾門下も同じだったようで、ここから彼らは一気に国事に邁進することになるのである。この頃八十郎は「一誠」と名乗るようになっていた。「誠実人に過ぐ」と松陰からその誠実さを激賞された一誠である。「至誠の人」たる松陰に倣わんという志が、この「一誠」という名に込められている。
この間桜田門外の変が起こるなど時代は激動の様相を見せ始めていた。松下村塾門下も久坂玄瑞が江戸に出たり激しく政治的な動きを見せる中、一誠は体が弱く、萩で療養に費やす時間が長かった。それが一誠の鬱々たる内向性を一層高めたのである。
この頃松下村塾門下は長井雅樂の「航海遠略策」の弾劾に明け暮れていた。開国を主張する長井許すまじの思いが強かったのである。濡れ衣だったようだが、長井こそが師松陰を死に追いやった元凶だという恨みも重なっていた。ついに久坂や一誠は、長井を藩の主流から引きずり下ろし、暗殺まで計画する。暗殺は失敗に終わったが、長井を追い落とす事には成功し、長井は切腹となった。
長州藩の苦境と一誠
久坂ら松下村塾門下生は京都で活動し、尊王攘夷の旗頭となっていた。他藩の人物との交流も増えていた。また、一誠はこの頃長州藩が中心となって主張したことで設置された天皇直属の親兵の一員となっていた。総督は肥後藩の宮部鼎蔵である。このように尊王攘夷の中心と見られていた長州藩は、口先だけではなく攘夷の先駆けとならなければならないというプレッシャーを受けていた。そこで長州藩は、下関海峡を通過する外国商船に片っ端から大砲をぶっ放したのである。これに対してアメリカ、イギリス、フランス、オランダの四か国は報復攻撃を行った。このとき、列強諸国の圧倒的火力の前に長州藩の砲台は破壊されて降伏と賠償金支払いを余儀なくされたのである。すでにその前年に攘夷論があまりに激しかった長州藩は八月十八日の政変で京都から薩摩、会津によって排除され、七卿とともに萩に帰らざるを得なくなっていた。そこから一発逆転を計った久坂玄瑞らは真木和泉らとともに禁門の変を起し、敗死していた。まさに出る杭は打たれる、踏んだり蹴ったりの状況であった。
一誠はこの時、四か国艦隊の報復に備えるべく萩にいた。一誠は帰藩後、右筆役、七卿方御用掛を命ぜられるなど、藩政にも参与し始め、少しずつ重きを置かれるようになっていた。そんな中での久坂玄瑞、寺島忠三郎、入江九一ら松下村塾門下の相次ぐ敗死は大きな衝撃だった。天地が崩れるような感覚に襲われながらも、一誠には悲しみに暮れる暇もなかった。第一次長州征伐が計画され、幕府や薩摩に長州が攻められるという事態が起こったのである。長州藩は恭順を選択。敗地に塗れた。高杉晋作や一誠らは、潜伏し再起の時を窺うことになったのである。
高杉晋作とともに挙兵
「どうして長州が朝敵なのだ!」
一誠には納得できない思いがあった。長州は幕府による長州征伐で朝敵扱いとなってしまったのである。藩内も幕府に恭順を示す俗論党が枢要を占め、抗幕派の処罰まで行われる始末であった。奇兵隊への圧力も加わった。奇兵隊は藩のカネによって運営されていたから、当然藩の方針が恭順となればその方向に従わなければ直ちに解体の危機にあったのである。奇兵隊は高杉晋作らの発案によって組織された戦闘部隊で、一誠はカネや食料の調達、傷病兵の救護といった裏方に従事していた。だからこそ俗論党にすべてを握られていることへの危機感は強かった。
高杉は奇兵隊創設者でありながらこの時は総ての役から外されており不遇を囲っていた。おまけに藩政府は諸隊の解散を命令した。
「もう我慢できん!」
高杉は萩を脱出すると、わずか六十人ばかりの兵を率い、功山寺に向かう。
「これより長州男児の胆っ玉をご覧にいれましょう」
高杉は三条実美にそう述べると、ひとり立ち上がった。少ないながらも高杉の蹶起に呼応する人材が登場してくる。一誠もその中にあった。一誠は高杉を死なせるわけにいかないと単騎駆けつけたのである。挙兵日は赤穂浪士の吉良邸討入と、吉田松陰が東北遊学の為に危険を冒して脱藩した日である十二月十四日であった。
「死ぬほどの価値のある場にあれば、いつでも死ぬべし!」
一誠もこのとき断髪を行っている。武士が髷を切るということは、俗人である事を放棄したということだ。決死の覚悟である。
高杉らは萩に向かって進撃する。実は藩主毛利敬親公もまた高杉ら正義派に同情的であったため、藩論は一気に転換、俗論党は追放された。
これにより一誠は藩主の側近たる御手廻組に加えられることになった。破格の出世である。正義派は俗論党に処刑されていたから、要職を担える人材が枯渇していたという裏事情もあった。高杉は、結果的に藩論こそ転換したものの、藩主に背き兵をあげた罪は残っていると感じ、要職に就くことを拒否、伊藤博文とともに英国留学に出かけていった(結果的には長崎までしか行かなかった)。
第二次長州征伐と高杉の死
幕府は長州藩の藩論転換を見過ごさず、再び長州征伐することを目論んだ。長州ではこれに備えるために西洋銃の買い入れが必須であった。だが、幕府に追討令が出されている長州には武器の買い入れができない。これを一挙に転換させる策が、薩長同盟であった。第一次長州征伐では長州攻撃の主役だった薩摩も、この時には方針を変換し、倒幕に傾いていた。
一誠はこの薩長同盟には消極的だった。
「理屈としてはわかる。しかし感情的に承服できない!」
というのが一誠の立場であろう。やはり久坂を死に追いやり、朝敵扱いされ、長州征伐で藩存亡の危機となるきっかけを作った薩摩を許すことはできない。干城隊の頭取など藩行政のトップの一角を占めた一誠であったが、この頃から出仕を渋るようになる。やはり薩長同盟に内心反対の心があるのだろう。とはいえ理屈としては理解できるからか、一誠はこの薩長同盟成立に便宜を図ったりもしている。このあたりはまたウジウジ悩む煮え切らない一誠が復活している。のちに一誠を萩の変に追い込む木戸との確執は、この時から始まっているのである。
とはいえこの時は情勢が確執を表面化させる余裕を与えなかった。第二次長州征伐の戦闘が本格的に開始されたのである。一誠は食料や弾薬の手配といった裏方仕事に再び忙殺されることになるのである。
第二次長州征伐においては、一誠は高杉らとともに主に小倉方面の戦闘を受け持つこととなった。一誠は小倉口の参謀心得となったのである。
しかし馬関に留まり戦闘指揮を執る中で入ったのは、盟友高杉晋作の体調が思わしくないという報であった。結核である。
一誠は高杉の病床を見舞う余裕もないくらい忙殺されていたが、将軍徳川家茂の死去に伴い、幕府方は戦意を失い少しずつ撤退工作を進めていくも、それを長州方に悟られないようにあくまで戦闘のポーズは崩していなかった。そんな中で一誠は高杉に代わり小倉口参謀の役割を受け持っている。事実上一誠の仕事は小倉方面の講話交渉であった。藩政府からは薩摩藩の大山巌を仲介役とし、肥後や筑前に働きかけよというのである。一誠は反発した。
「薩摩に出過ぎた真似はしてほしくない!」
こうして一誠は、藩政府にあって大山巌と会っていた木戸の意向を完全に無視して、現場の判断で小倉藩の世子を人質に出せなどと強硬な要求を叩きつけた。
幕府軍総督・小笠原長行も海路で小倉から離脱、残された小倉藩が小倉城に火を放ち逃走したため、幕府軍の敗北が決定的となっていた。小倉藩との講和は、結局強硬派たる一誠を抜きにして行われた。一誠はまたも辞意を木戸に手紙で伝え、引きこもった。高杉の病状も気になっていた。だが一誠の辞表は当然受理されるはずもない。木戸は一誠の辞表を握りつぶした。
慶応三年四月十三日深夜、高杉晋作、肺結核のため死去。享年二十九。辞世の句は、「おもしろきこともなき世をおもしろく」である。
一誠は高杉の死を深く悲しんだ。高杉の才気あふれる光あってこその一誠であったといってもよい。しかし、これからは一誠は独力でやらなければならない。
「きっとやる! 志を果たす!」
決意を新たにした一誠はとんでもない奇策を打ち出した。なんと占領地となっていた戦闘に疲れた小倉藩農民に、勝手に年貢半減令を出したのである。ここから仁政にかける一誠の戦いが始まる。 (続)