金子宗德「國體弱体化政策の恐怖」(『維新と興亜』令和5年3月号)
野党にも国家意識のある政治家はいる
── 我々は、保守思想は確固たる國體観に支えられなければならないと信じています。保守政党と呼ばれる自民党に國體観を持った政治家はいるのでしょうか。
金子 私は、「明治の日推進協議会」の事務局長を務めています。この運動は、占領下において戦後憲法の公布を記念する祝日とされてしまった「文化の日」を、明治天皇の御生誕日という本来の趣旨に基づく「明治の日」に改めることで、少なくとも一年に一度は、国民が明治維新あるいは明治の御代を振り返る機会を設けたいというものです。さらには、そこに止まらず、國體復古としての明治維新、國體の近代的展開過程としての明治の御代の諸側面を見直すことで、國體についての認識を深める機会になればと思っています。
活動の一環として国会議員に対するロビーイングを行っていますが、その過程で認識を新たにしたのは、國體観はともかく国家意識を有する政治家は政党とは関係なく存在するということです。共産党や社民党、れいわ新選組といった左派勢力は論外ですが、他の政党・会派に所属する有志国会議員は超党派の「明治の日を実現する議員連盟」を結成しており、民間側の「推進協議会」と連携して祝日法改正に向けた努力を重ねています。
議員連盟の活動に最も積極的であるのは、野党に位置する日本維新の会と有志の会です。両者の政治的立場は異なりますが、それぞれの立場から明治維新や明治の御代に意義を見出しているのでしょう。『維新と興亜』に寄稿されている福島伸享議員からは多くの有益な御助言を頂いています。
また、立憲民主党や国民民主党においても、旧民社党や非自民系保守の流れを汲む議員が議連に加入しています。立憲民主党で最初に賛同されたのは、落合貴之議員でした。落合議員とは共通の知人が主催する会合で同席し、それ以来、私が編集している月刊『国体文化』を送っていたのですが、ある筋から憲政史家の倉山満氏と親交があるらしいとの話を聞き、駄目もとで御相談に伺ったところ賛意を示され、自身が属する「直諫の会」の代表である重徳和彦議員を御紹介頂きました。徳川家ゆかりの愛知県岡崎市を地盤とする重徳議員が徳川家支配の否定から始まった明治の御代を評価する「明治の日」実現に力を尽くすという構図は面白いですね。
重徳議員や落合議員は國體を前面に出して云々するタイプではありませんが、地元の神社に熱心に顔を出しているようです。重徳議員は靖国神社にも参拝しています。両議員には、立憲民主党を「陛下の野党」にして頂きたいと思います。この表現は、二大政党制が定着しているイギリスで一八二六年に初めて使われたもので、野党であっても国王の統治を補翼する存在でなければならぬという考え方を示したものです。
そうした野党の良識派が「明治の日」制定に肯定的なスタンスを採る一方で、保守政党とされる自民党の中に否定的な声があるようです。これは、大東亜戦争敗戦以前の歴史と訣別した証とも言うべき日本国憲法の公布日であることに基づく「文化の日」に拘泥し、國體の歴史的展開の一過程として明治の御代を積極的に位置づけようとする「明治の日」を否定するもので、「自主憲法制定」という自民党の党是にも反する存在と言わねばなりません。自民党の議員には戦前から続く名望家の末裔が少なからずおりますが、その中には國體観どころか国家意識よりも自らの利権を守ることに汲々として已まぬ者がいるのです。そうした既得権益の中には、文化や芸術の領域も含まれているのです。
野党の反対で難航した紀元節復活
── かつての自民党には、生長の家系の玉置和郎氏や村上正邦氏らのように國體観がある政治家もいたように思います。
金子 かつては、玉置氏や村上氏のほか、井波八幡宮の宮司でもある綿貫民輔氏や板垣征四郎の次男である板垣正氏など確固たる國體観を有する政治家がいました。玉置氏を除く三氏は、「昭和の日」制定に大変な尽力をされたと聞き及んでいます。ところが、現在の自民党には、国家意識はともかく確固たる國體観を有する政治家はほとんどいないように思われます。
そのような状況が生じたのは何故でしょうか。それを考える材料として、紀元節復活運動の経過を振り返ってみたいと思います。
紀元節復活の動きは、すでに主権回復前からありました。サンフランシスコ講和条約の事前交渉が進められていた昭和二十六(一九五一)年三月九日、吉田茂首相が参議院予算委員会で「講和條約ののちにおいては紀元節は回復いたしたいものと私は考えます」と答弁しています。これを受けて、同年十二月に神社本庁が「紀元節」復活運動の推進を決定しました。
昭和二十七(一九五二)一月二十四日、自由党政務調査会文教部会が「紀元節復活」を決定します。そして、昭和二十八(一九五三)年十一月には、前衆議院議員で、黒住教顧問を務めた若林義孝氏の提唱で「建国記念日制定促進会」が結成され、翌年二月十一日、同会と東京都神職青年会の共催で「紀元節奉祝国民大会」が開催されました。
こうした動きを受けて、岸信介内閣時代の昭和三十二年(一九五七)二月十三日に「建国記念の日」を制定するための祝日法改正案が警察官僚出身である纐纈弥三氏らにより議員提案の形で提出されます。この時点では、神社界と協力して國體の再興に力を尽くそうとする自民党の政治家がいのです。
しかし、法案は成立せず廃案となり、以後何回かにわたって法案の再提出が繰り返されましたが成立には至りませんでした。社会党や共産党が実力行使によって法案の成立を阻止しようとしていたからです。昭和三十八(一九六三)年六月二十日の衆議院内閣委員会では、採決を試みた自民党の永山忠則委員長が反対派議員に体当たりされて入院するという事件が起きました。結果として、紀元節の復活は容易に実現しませんでした。共産党はともかく、当時の社会党が真っ当な国家意識を有していたならば、戦後日本は現在のような惨状を示してはいなかったろうと思います。
ようやく佐藤栄作内閣時代の昭和四十一(一九六六)年三月、改正案が再び提出され、六月二十五日に設立しました。この時期になって法案が成立したのは、反対勢力の力が弱まったからでしょう。かくして、「紀元節」は「建国記念の日」として実質的に復活しましたが、政府主催の奉祝式典を開催することはできませんでした。
福田赳夫内閣は、昭和五十三(一九七八)から作曲家の黛敏郎さんが会長を務める「建国記念の日奉祝運営委員会」主催の奉祝行事を総理府の名義で後援し、官房長官が出席することもありました。ところが、左派勢力は「神武天皇御陵に対する拝礼があるのはおかしい」、「憲法の定める政教分離に反する」などと攻撃し、政府主催の奉祝行事を求める動きは頓挫してしまうのです。
その後も、國體を重視する政治家は政府主催の奉祝行事を求め続けますが、次第に彼らの力も弱まっていきました。それでも、平成十九(二〇〇七)年「昭和の日」が制定される頃までは存在感を見せましたが、その後は、力を失ってしまいます。
GHQの日本弱体化政策が残した空気
── そうなったのはなぜでしょうか。國體復興の動きに対してイデオロギー的に反対する勢力が弱体化したとすれば、國體復興に向けての機運が高まってもおかしくないはずですが。
金子 冷戦終結に伴って社会主義・共産主義の魅力が褪せる中、平成八(一九九六)年に社会党が解散するなどイデオロギー的な反対勢力は弱体化したものの、時すでに遅しで、その時点では多くの国民から國體観どころか国家意識が失われてしまっていたのです。
教育勅語を否定する形で制定された教育基本法の下、文部省が黙認する形で日教組が國體どころが国家の存在意義を全否定するが如き教育を受けた上に、社会全体が資本主義のメカニズムに絡めとられていく中で、国家とはいかなるものか考えたこともない人々が社会の多数派となりました。
政治家も人気商売ですから、有権者が望まないことは口にしません。國體について迂闊な発言をすると、左派勢力の同調者が多いマスコミに叩かれるリスクがあり、たとえ自分なりの國體観を有していたとしても、それを敢えて口にしなくなったのです。
そもそものことを言えば、「國體を語ると叩かれる」という空気を作り出したのは間違いなくアメリカです。より正確に言うと、アメリカの左派勢力です。GHQに巣食った彼らが「ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム」を日本社会に埋め込み、様々な分野に橋頭保を築いていた日本国内の左派勢力が國體再興を目指す動きを潰してきたのです。そうした中で、自民党の政治家は國體の再興ではなく既得権益の確保にばかり汲々とするようになったのです。
── かつて、紀元節復活運動を後押しした神社界にも変化があるのでしょうか。
金子 神社界は、紀元節復活運動のほか元号法制定や靖国神社国家護持など、國體や神社に関わる政治課題を解決するため政治運動を展開してきました。現在でも、皇位継承問題について男系男子による継承を護持すべきという立場から積極的に活動しています。それ自体は評価すべきですが、LGBTの問題など國體や神社との関係が薄い政治課題について発信する必要があるのでしょうか。それよりも、神社の存立に関わる地域コミュニティの衰退を如何に防ぐかといった問題意識から政治家に働き掛けを進めるべきではないかと思います。
國體という概念を受け入れられない若者たち
── 状況は決して楽観できないということですね。
金子 私は悲観的な感触を持っています。
と言うのも、平成に入ってから構造が大きく変わってしまったように感じるからです。私は昭和五十(一九七五)年生まれですが、私が若い頃には、自分の周囲には確固たる國體観とまでは行かなくとも、保守的な生活信条と結びついた素朴な国家意識を有する大人たちがいました。しかし、私より下の世代の人たちの周りには、そうした大人たちがほとんどいないのです。
令和に入ってから、そうした傾向が強まっています。先日、私が講師を務めている大学の試験で、「講義の中で一番印象残った人物を挙げ、その理由を書きなさい」という問題を出したところ、三島由紀夫の名を挙げた学生がいました。テレビで見る弱々しい政治家や、政治と距離を置く友人達に苛立ちを感ずると言う彼は、動画サイトで自衛隊に決起を促す演説に強い印象を受けたそうですが、「日本を日本たらしめる存在としての天皇」という言説に何のリアリティも感じられないどころか、「歴史上の日本と私が生きている現在の日本が連続しているもののようには思えない」というのです。この答案を目にして、私は殴られたような衝撃を感じました。日本政治の現状に苛立ち、三島の演説に共鳴するセンスを有する学生であっても、國體という概念を受け入れ難いというのですから。
敗戦から八十年弱、世代交代が進む中で、これからの日本を背負う若い世代に國體という概念を如何に伝えるか。これは大きな課題です。國體のみならず保守思想を説く側の言説は煩瑣な上に古臭くなり、それらを説く人々の高齢化も相俟って、若い世代からすると敷居が高くなっていると思います。その敷居をどう下げるか、非常に難しい課題ですが、真剣に考えるべき時期が来ていると思います。
先ほども言った通り、学校教育には期待できないとすれば、確固たる國體観を養成する事業、昔風に言えば私塾ですが、もう少し敷居を下げたフリースクールやカルチャーセンターのようなものが必要ではないでしょうか。