四宮正貴「吉田松陰の根本精神は絶対尊皇思想である」(『維新と興亜』第5号、令和3年2月)
吉田松陰は、「本邦の帝皇、或は桀紂の虐あらんとも、億兆の民は唯だ当に首領を並列して、闕に伏し号泣して、仰いで天子の感悟を祈るべきのみ。」(安政三年「斎藤生の文を評す」『丙辰幽室文稿』所収。本邦の帝皇に、あるいは桀王や紂王のやうな残虐な行為があったとしても、億兆の民はただ頭を並べて、天子の宮殿の門の前に伏し、号泣して、祈るべきのみである、という意)と論じている。
この絶対尊皇思想は、山崎闇斎の思想に通じるものがある。村岡典嗣氏は、「(注・尊皇思想の近世における)最も代表的なものを山崎闇斎を祖とする垂加神道の所説とする。曰く、日本の天皇は、支那に比すれば天子ではなく天そのものに當る。…儒教でいへば、大君の上に天帝があり、勅命の上に天命がある。しかるに我國では、大君なる天皇は即ち天帝であり、勅命はやがて天命である。されば君不徳にましまして、無理を行はれるといふやうなことがあっても、日本では國民たるものは決してその爲に、天皇に背き奉りまた怨み奉るべきではないことは、恰も天災がたまたまあったとて、ために支那に於いて、天帝に背き、また天帝を怨むべきではないとされるのと同様である、と。…これこそまさしく、わが國民精神の中核を爲した絶対尊皇思想である。」(『日本思想史研究』)と論じている。
日本における変革は、天皇を原基として行われて来た。天皇國日本の本来的あり方への回帰即ち日本國體の明徴化が、そのまま現実の変革となるというのが、わが國維新の本質である。また、政治変革によって権力の移動は行われても、天皇の國家統治は決して変らない、言い換えると政体変革はあっても國體変革は絶対にあり得ないというのが、日本の道統である。その根底には、まさに天孫降臨・日本肇國以来、日本國民の心の奥底にあり続けた「天皇信仰」がある。
安政六年十月二十日付の「諸友に語ぐる書」には「聖天子宵衣旰食(朝早く起き日暮後遅く食事をとる、即ち君主が國事に精励される意)、夷事を軫念(天子が心を痛めること)したまひ、去年来の事、豈に普率(普天率土・全世界)の宜しく傍観坐視すべき所ならんや。是れ宜しく今日天子の為めに死すべし」と書いている。この文章は、「天子の御為に命を捧げる」といふ尊皇精神・勤皇精神の極を説いているのである。
安政六年十月二十日付の入江杉蔵宛の吉田松陰の手紙には、「学問の節目を糺し候事が肝要にて、朱子学じゃの陽明學じゃのと一偏の事にては何の役にも立ち申さず、尊王攘夷の四字を眼目として、何人の書にても、何人の學にても、其長ずる所を取る様にすべし」「清原某神代巻跋、松苗十八史略序、此の二篇小子深く心服仕る論なり」と書いている。「清原某」とは、清原國賢という儒者のこと。慶長四年に、後陽成天皇の勅旨により出版された『古活字版日本書紀神代巻』の校訂者である。清原國賢はその跋文に「蓋し神道は萬法の根柢。儒教は枝葉と為る。仏教は果実となる。…万機之政、尚神事を以て最第一と為る」と書いた。松陰は獄中でこの文を読んだのであろう。
死の直前における松陰の学問に対する姿勢は、尊皇攘夷の精神と神道精神・日本國體精神を基本にして、多くの学問を身につけるべしというものである。日本國體精神を確立した上で、多くの学問を学ぶことを奨励している。松陰は攘夷論者ではあったが決して頑ななる排外思想の持ち主ではなかった。
松陰は『将及私言』(嘉永六年)において「己ヲ虚シウシテ物ヲ納レ、人ノ長ヲ採ツテ己ノ短ヲ補ヒ、彼ノ有ヲ遷シテ我ガ無ヲ贍ス」と述べ、開國して外國の長を取り入れるべきだと論じた。松陰は鎖國論者ではなかった。攘夷と鎖國とは全く似て非なるものである。
和辻哲郎氏は「(注・松陰は)威嚇されて開國するごとき屈辱に堪えることはできなかったが、外國の文物を単純にきらうというごとき偏狭な國粋主義者なのではなかった。」(『尊皇思想とその傳統』)と述べてゐる。
尊皇攘夷即ち國體精神を基本としつつ多くの文化・学問を学び、継承し、発展させるというのは、日本文化の傳統である。基本にある國粋精神は強靭であるが、学問・文化の受容・継承は柔軟なのである。國粋精神と包容精神が二つながらにして一つであるのが日本精神である。これが日本人として学問をする基本的態度であるべきである。
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