不幸の正しさ
呼吸を整える。これほど簡単に試すことのできる手段さえ、不幸な人は実際にやってみようとはしない。まさにそういう状態を、不幸という。
かれにとっては、不幸であることが大切になっている。己が不幸であることの正しさを、どうあっても世の人びとに認めさせなくてはならない。まさにそういう状態を、不幸という。
私の不幸は重要で、貴重で、そうそう簡単に手放せるような安っぽいものではない。呼吸ひとつで失われるような軽々しいものであるはずがない。かれはそう堅く信じている。まさにそういう状態を、不幸という。
そういう次第で、かれは正真正銘の不運や災難に見舞われたひとよりも、遥かに救いがたく不幸に陥り、そこに留まり続ける。そうしてかれの不幸を認めてくれる誰かがやってくるのを、待ち続けている。
そしていざその不幸が認められ、正しいものとされると、かれはさらに不幸になる。彼は正しいのだ。ならば後戻りはできない。ますます引っ込みが付かなくなる。そうしてかれはさらに不幸の理由を探し、不幸をつのらせる。
不幸の「原因」がかれを不幸にしたのではない。かれは「呼吸を整える」タイミングを、遥か以前に逃したのだ。不幸はその失敗から始まった。まさにそういう状態を、不幸という。
面白いことに、そのような不幸な境遇に置かれたひとは、大いに満ち足りていたりするものだ。幸福ではないとしても。かれはその大いなる目的を果たした。勝利した。かれは成功者なのだ。この成功の果実の甘さにくらべれば、幸福など何ほどのことがあるだろう。他人の不幸は蜜の味、とんでもない。かれが味わっているものは蜜よりもさらに甘い。
だから、賢明なる読者諸兄だけにこっそり、この真実をお伝えしておこう。かれに同情したり、哀れに思ったりする必要はない。助けの手を差し伸べる必要もない。その手は、正真正銘の不運と災難に見舞われ、呼吸を整えるいとまもなく悪戦苦闘しているひとのために取っておきたまえ。