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正しさと平静さ

 

 不幸な人にとっては、不幸であることが正しい。かれはその正しさに取りつかれている。不幸に取りつかれている人は、正しさに取りつかれているのだ。

 真に正しいとき、ひとは己の正しさを意識したりはしない。正しい呼吸をしている人が己の呼吸を意識したりはしないように。

 ひとが己の正しさを意識し始めるのは、自分は間違っているかもしれないという恐れを抱き始めたときである。

 同様に、ひとが己の呼吸を意識し始めるのは、なにものか、なにごとかへの恐れを抱き始めたときである。呼吸は、すでに乱れ始めている。

 むずかしいことではない。呼吸を意識し始めたら、呼吸を整え始めることだ。呼吸を平静に戻す行為にすべての意識を注ぐことだ。呼吸していることを忘れることができるようになるまで。

 幸運なことに、己の呼吸を意識することと、呼吸を平静に戻すためのしぐさや動きに意識を注ぐことを、ひとは同時に行うことはできない。その行為の間、あなたは乱れた呼吸のことを忘れる。行為が一段落し、平静になった呼吸に気付くまで。

 もう少し経つとあなたは、行うべき次のことに注意を向け始め、それに没頭し、その頃にはもう、自分が呼吸していることなど忘れているだろう。平静なのだ。恐れに立ち向かうのはそれからでも、たいていの場合は遅くない。その結果も、乱れた呼吸で事態に立ち向かった場合より、遥かによいものになる可能性が高い。

 もっと可能性が高いのは、恐れを引き起こしていたそもそもの源が、いかにくだらない、つまらないものであったかを発見することだろう。あなたを怖い顔で呼び出した上司は、実は呼び出す相手を間違えていただけだったのだ。あなたが考えていた百十三もの弁解(正しくないことを正しいものとする無理な努力)はすっかり無駄になったが、その無駄骨折りがあなたを不幸にすることはあるまい。あなたは最初から正しかったのだ。その後、もはやあなたは自分の正しさを意識はしない。その必要がなくなったから。

 もっとよいのは、弁解を考えることに時間を空費する前に、まず呼吸を平静に戻し、目の前の仕事と散らかった机の上を片付けて、上機嫌でその上司に会いに行くことである。ノックしたドアの先に実際のところ何が待っていようとも、乱れた呼吸のままでいる時より、遥かにうまく対処できるだろう。

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