『インストール』/宇多田ヒカル本⑤
綿矢りさの小説『インストール』は、高校生活に疲弊し不登校になった朝子が、ラストで再び高校生活に戻るのか、あるいは全く価値観が変わって新しい人生を歩むのか、その選択の過程である不登校生活を描いた小説であり、ドロップアウトした朝子の動向を楽しむストーリー。
この不登校の期間に、朝子が自分の人生を見つめるための装置が二つある。
一つはインターネットで出会う人たちとの交流。
もう一つが、現実世界の代表である友人の光一。
朝子がネット上で自分の居場所を見つけていくあいだで、高校でどんなことがあったのかを光一が教えてくる。それによって朝子は否応なく現実に直面させられる。
光一は大学受験に向けて努力しているようで、早稲田大学を目指すという。音楽家として成功を収めるだけでなくコロンビア大学に進学してしまった同世代の宇多田ヒカルを意識している。
「受ける大学決まった?」
光一にそう聞くと、彼は、「早稲田。宇多田ヒカルが俺を焦らすんだ!」と意気込んだ。
2001年当時の高校三年生の心の叫びでもあったろう。綿矢りさを含む、当時の高校三年生たちが感じていたプレッシャーや焦燥感をそのまま描いている。宇多田の存在は、彼らにとって単なる音楽家以上のものであり、同時代に生きる若者にとってのロールモデルであり、達成感を得るための基準でもある。2001年の宇多田ヒカルは若者たちの目指すべき成功の形であり、同時にそれがもたらすプレッシャーでもある。この小説を通じて綿矢りさは、若者が抱える自己実現の葛藤と、その解決に向けた逃避という一つのアプローチを描いた。
なお、2005年に発売された『インストール』の文庫バージョンでは、カップリング作『you can keep it.』が書き下ろされた。
こちらの舞台は大学生活。
無事早稲田大学へ進学を果たした綿矢りさが見たのであろう大学の大教室のような大教室がラストシーンで描かれており、女子学生の三芳が大教室の階段を駆け上がってくるところは、宇多田ヒカルがコロンビア大学の登校初日に大教室の階段をくだる際に盛大に転倒してしまったというエピソードと合わせ鏡のように読めてしまう(HIKARU UTADA OFFICIAL WEBSITE | MESSAGE from Hikki (sonymusic.co.jp))。
三芳がサンダルで走りにくそうに大教室の階段を駆け上がってくるラストシーンの描写と、同じく大教室の階段で宇多田ヒカルが転倒したエピソードは、対照的であると同時に、どちらも大学生のゆるく不安定な成長過程のような景色に思える。大教室のあのゆるやかな階段が持つ、青春の空気感は、どんな人物であっても、それが宇多田ヒカルであっても、三芳のような無名の学生であっても、たぶんその有名と無名の中間を行き来していたであろう綿矢りさであっても、ただの不安定な大学生に変えてしまう魅力があるのだ。