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はてしない石の物語#69~「これからの大事」を教えてくれたリング

ふと母が「イギリスに行った時にコベントガーデンの蚤の市のようなところで買った指輪をあげたよね?」と聞いてきました。どんなデザインのものか説明されたとき、「あ、そういえば、しばらくは身につけないと思ってしまっていた指輪があった」と思い出しました。

家に帰って確かめてみると確かにありました!なぜしまっておいたかというと、コロンとした形をしている上に、サイズも大きかったので落としてしまいそうだったし、普段に身につけるものではないと思ったからです。

ちょっとコロンとしているのが写真でわかるでしょうか?

イギリスの蚤の市で母が買ったリング

もらったのはもうずいぶんと前のこと。でもこのタイミングで母が思い出したことに意味があると感じたので、石の勉強会の時にK先生に見ていただきました。

リングを見て先生が最初におっしゃったのは「これもらう時、お母さんは何て言ってた?」でした。でも全く覚えていません。そう伝えると「何と言われたのか、ということも大事なんだけどなあ」とのこと。そして「この指輪には女性としての幸せが訪れますように、というような願いが込められている。お母さんとしてではなく一人の女性としてもっと幸せになるように、と。ちょうど今、めぐみさんは娘さんが二人とも家を出たから、まさにそのタイミングなんだよね。子どもに注いでいたエネルギーを自分に注ぐ時に来ている」と・・・

このところ、石の勉強会で似たようなことを言われることが増えていました。まさに今、私はそういう分岐点に立っているのでしょう。周りの人からはよく「娘さんが二人とも離れて寂しいでしょう?」と聞かれるのですが、寂しさは今のところ全くないのです。それより「さあ、私はこれからどう生きようか」とわくわくするような感じがあります。

「お母さん」である間、自分で思っている以上にエネルギーを子どもに注いでいるものだと思います。長女に続き次女も家を離れたとき、私が感じた気持ちは寂しさではなく解放感だったのです。

「お母さん」という立場に限らず、家族、職場、私たちはいろんな人間関係の中で生きていて、自分で思っているよりずっとエネルギーを周りに注いでいるものではないかしら。自分の心に目を向けて水や栄養をあげることも心がけておかないと、気がついた時には「心もエネルギーも枯渇している」となって取り返しのつかない後悔を感じることになってしまいそう・・・

実はもう20年近く前、私は自分の心がそういう状態になっていることに気がつきました。その時、大げさなようですが「奈落の底をのぞく」ような気持になりました。今振り返っても、あの時の絶望感が人生の中でも際立っています。その時から手探りで「自分は何を求めているの?」という問いかけを続けてきました。まず最初にやってきたのは溜め込んでいた思いが噴出したかのような何か月も続く「涙」と「咳」でした。溜め込んだものはいつの間にか消えてはくれないんですね。そう都合よくはいかない。「断捨離」という言葉があるように、心に対しても「必要なもの」「必要ないもの」あるいは「大事なもの」「そうでもないもの」「むしろ重荷なもの」を区別して「断捨離」する必要があるんですね。

「奈落の底をのぞく」ような、あの時があって良かった。だからこそ、子どもたちが巣立った時に、解放感とわくわくを感じられる自分があるのではないかと思います。

もう長いこと手元にあったのに存在を忘れかけていたリング。必要なタイミングでまた出逢えるようになっているんですね。しかも、このデザインは子どもにエネルギーを注いでいる時に身につけたいと思えるものではなかった。他に気を使わなくてよいからはめることができるデザインだと思うのです。これからは「自分を楽しむため」に身につけたいと思っています。

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