『タイプライター』と『なにか』
『タイプライター』と『なにか』
古い映画を見ているとタイプライターを使っているシーンを見ることがある。たとえば、ショーン・コネリーの「小説家をみつけた」では並外れた文才を持ち一流高校に編入を許された黒人が白人が在籍する一流高校に編入を許され、黒人差別の中やがて彼の文才が認められるという映画なのであるが、その中で彼は師匠と出会う。その師の助言を元に才能を開花させていく。やがて師との友情が芽生えるが、あるとき彼の文才への嫉妬か黒人だったせいか教授が彼を文章の窃盗で教授会に訴えた。退学の危機を迎えるが師が昔描いた作品の著作権を彼に仕立てたことから窃盗の疑いは無くなり彼が書いた文章が認められることとなった。
また、「スタンドバイミー」の最後に、青年時代を回顧する際にタイプライターを打ち付けるシーンがある。「タイプライター」という映画もあったがまだ見ていない。
映画の話が多かったにで映画の評論をやっているのではないかと思われたがそうではない。要するに映画の中のそれが僕のタイプライター像を形作っており、このタイプライターこそが重要なのだ。シャーロックホームズで婦人の裾の若干の削れから婦人の職業がタイプライターであると推理し、見事的中させた。しかし、いまはすでにこのような推理をする場面は推理小説だけになってしまったし、上野の展示場までいかないとみることができなくなった。
現代はもっぱらパソコンがメインで、急進的であればiPad を活用している人もいる。しかし、あのカタカタというタイプライターを打つ音と行替えの際になるベルの音などタイプライターの独特な質感を表現することは難しい。としてみると、このタイプライターの魅力は尽きないのではないだろうか。