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期待について

「期待が愛を殺す」という表現があって、それは確かにそうだなぁと思うところです。

怒りは「期待が満たされないところ」に生じます。

結構「ああ、怒ってるんだなぁ」と思う場面に遭遇することはありますが「もっと世の中はこうあるべきなのに!」「もっと上司はこうであってほしいのに!」みたいな期待が満たされずに、だから怒っているとうような場面です。

私の好きなヒンズー教のある本では「私は一切期待していない。ただ愛している」という表現があります。

これは師匠が弟子に対して言うセリフなんですが「身の回りの世話をして欲しいとか、そういう期待は一切ないよ。なにもしてくれなくても自分のことは自分でするからね。」的なニュアンスです。
私の好きなヒンズー教のある本では「私は一切期待していない。ただ愛している」という表現があります。

これは師匠が弟子に対して言うセリフなんですが「身の回りの世話をして欲しいとか、そういう期待は一切ないよ。なにもしてくれなくても自分のことは自分でするからね。」的なニュアンスです。

もし「私は、私の●●に一切期待していません」と言ったとしたら、一般的には「冷たい人」と思われるのじゃないかと思います。

「私は、私の子供に一切期待していません」とか
「私は、私の部下に一切期待していません」とか
「私は、私の会社に一切期待していません」とかって言ったとしたら、
それは、その関係性に絶望しているかのようです。

後半の句である「ただ愛している」がなければ、ただの冷たい関係でしかないように見えます。


なぜ「期待が愛を殺す」と言うのかというと、期待は往々にして押し付けになっていることが多いからでしょう。

「子供が医者になることを期待している」
「子供が東大に入ることを期待している」

そういう時に、例えば子供自身は医者じゃなくてITのエンジニアになりたいとか、大学に行かずにすぐに働きたいとか、そういうのがあったときにそれを尊重できなくなってしまう。

期待、というのはもう少し言葉を足すと「私の望み通りにあなたが動くように、私はあなたに期待していますよ」という意味合いを帯びているわけです。

そして、期待を裏切られて、怒ったりします。

例えば「子供大会優勝間違いなし!」と思われていた我が子が、準決勝辺りで負けたときに「なんて情けない子だ!」と怒鳴るような親は、勝手に期待をして、勝手に怒り出しているわけです。

「上司はこうあるべきだ」というような期待を持っていて、自分の上司が自分の好みでないようなときにも、部下の方が勝手に期待をして、勝手に怒り出しているということがあります。

期待は、期待をする側が勝手にします。
期待をされる側の状況や希望などをさしおいて、期待をする側が勝手にできてしまうのが期待です。

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しかしだからと言って「私は一切期待していない」というのもなんだか冷たい感じがします。

もし会社に入って上司から「君には一切期待していないから」とニコニコ言われたら、その新入社員のやる気は削がれてしまうだろうと思います。

では、期待はしないとしたら、どういう心持ちで接したらいいのでしょうか?

応援している
信じている
楽しみにしている
希望を感じている・・・・

自分がコーチングをしていて、クライアントに対する態度として一番近い言語表現は「信じている」かもしれないです。

クライアントがいきたい方向がAの方向かBの方向かCの方向かは分かりませんし、どれでもOKです。

どれくらいのペースで進んでいきたいかもクライアント次第です。

クライアント自身にとって最善の道を、クライアント自身は見つけられる、と信じているということは土台にあるように思います。

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最後に「自分に期待する」ということについて。

「自分は将来、こんな活躍ができるようになる!そう自分に期待している!」ということはあってよいように思います。それがエネルギーとなって、ポジティブに取り組んでいける、ということは多々あります。

でも他者からの期待と同様、自分への期待も押し付けになることはあります。
過去の自分から、今の自分への押し付け。
顕在意識の自分から、潜在意識の自分への押し付け。

そして期待が高すぎると「足りていない自分」へのフォーカスが強くなりすぎて、自分を責めすぎてしまったりするリスクもあります。

自分の未来へ期待しつつ、ここまでやってきた自分を認めたり、労わったり、褒めたりするようなことも、バランスよくやれるといいのだろうなと思います。

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