徳の積み方や活かし方
宮田りょーちんからいただいたお題、二つ目。
「徳の積み方や活かし方」
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【無功徳】
むくどく。
これは禅の開祖である達磨が、時の皇帝に「私は、お寺建てたりいっぱいしてきたけど、この功徳はどれほどか?」と問われて、一言言い放った言葉と言われています。
達磨は「まったく功徳はない」と言い放ったわけです。「全然、徳なんて積めてないよ」と。
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僕は、ヒンズー教や仏教の影響を強く受けているので、こういう発想がまず出てくるんだな、と思う。
徳なんてもんは、積めるもんじゃないんだよな、っていう。
「私は、日々、徳を積んでいる」みたいな意識があったとしたら、それはまさに”徳”から離れていっているように思ってしまう。
周りから徳の高い名僧だと敬われてきた人たちはいる。
明恵とか、空海とか、きっとものすごく徳の深い人なんだろうと思う。
もちろんお坊さんじゃなくても、徳の高い人たち、徳を積んできた人たちはいると思う。お母さんとか、社長さんとか、インフラエンジニアとか、色々いるだろうと思う。
でもその人たちは「徳を積もう」とは、思ってないんだろう、と僕は思う。
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僕が「徳を積む」という言葉から真っ先に思い浮かべることは、
”お母さんが赤ちゃんのオムツを変えた”
ということです。もし、徳が積まれるということがあるとしたら、そういうことなんだと思います。
もう一つ、僕は大好きな話があって、これは欲求階層説で有名なマズローが本の中で「自己実現欲求」を説明している話。
”孫と二人で、イチゴを食べている。とてもおいしい。最後の一粒になる。最後の一粒を孫がほうばる。とても嬉しい。”
これが、自己実現欲求なんだって、彼は説明をしています。
徳っていうことと、言葉は変わっちゃうけど、徳ってことを思うと、僕はこの辺の話が思い浮かんできます。
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この人のことが好きだ
この人のことを愛している
この人のことを大切に思っている
そういう気持ちから生じる自然な行為、融通無碍な行為
もし「徳が積まれる瞬間」というものがあるとしたら、僕はきっとそういう行為の瞬間に、それがあるんだと思う
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・・・ある時期、僕は徳を積もうと頑張っていた時期があることを正直に言います。
陰徳、陰徳、と心の中で呟きながら、善行を積み重ねていこうとしていました。トイレを掃除したりして。
でも、その時僕の内側で育っていたのは、謙虚さや感謝みたいなことじゃなく、増長や傲慢さでした。
「私は、人知れず、毎日トイレを掃除しております。これはどれほどの功徳でしょうか」
もし達磨大師に直接伺う機会があったとしたらきっと「無功徳」と言われていたことだろうな、と思います。