受け入れるべき苦しみと、受け入れる必要のない苦しみとは。
松島宏佑からいただいたお題、其の二。
「受け入れるべき苦しみと、受け入れる必要のない苦しみとは。」
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これは完全に僕個人の考え方なんだけど(いや、全ての文章がそうなんだけど、あえて言っておきたくなって)
受け入れるべきというか、言葉は変わっちゃうけど「無視していい感情は一つもない」と、僕は思っているのね。
自分の中で湧き上がっている感情を無視するということは、自分で自分の一部を無視するということで、
それは拡大して言えば、自分で自分を無視するってことで、
なんていうか、それは一番やっちゃいけないことだよ、と僕は思ってます。
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だから「苦しい」という気持ちが湧いてきたら、それは本当に大事にして欲しいなと思う。自分でも大事にしたいなと思う。
ああ、苦しんでいるんだなぁ。自分、苦しんでるなぁ。。。っていうのを、抱きしめてあげて欲しい。
受け入れるべき、受け入れるべきでない、引き受ける必要がある、引き受ける必要がない、そういうのを簡単に言うと
「人の感情は、引き受ける必要がない」
「自分の感情は、引き受ける必要がある」
って切り分けは、まぁ、理屈上はできると思うんだけど、
折角お題をもらったから、もうちょっと丁寧に言語化してみたいと思う。
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苦しいってのはさ
葛藤があるんだよね
右に行きたい自分と、左に行きたい自分
引き裂かれそうな自分
貴方を大事にしたい自分と、私を大事にしたい自分と
引き裂かれそうな自分
だから「苦しむ」って、ものすごい愛なんだと思うんだよね
苦しんでいるって言うことは、それだけ愛しているってことなんだと、僕は思うんだよね
苦しみの中にあるのは辛いことだし、早く抜け出したくもなるし、できることならもう味わいたくない、とかってなると思うんだけど
「苦しむ」というのは、愛の現れであることは、結構あると思う。
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そんな苦しみはとっとと放り出そう、みたいなのもあるよ。
いじめとか、虐待とか、そんな風に呼ばれるような状況とかは、もう放り出して、逃げ出して、早く早く自分を苦しみのないところまで連れ出してあげることが大事な場面もあると思う
(逃げ出せなかったんだな、、、みたいな事象にニュースとかで触れると、もういたたまれなくて僕は直視するのがつらくなっちゃう)
正常な判断力みたいなのまで奪われてしまって・・・みたいな状況に触れるのはつらい。社会的に「逃げ道」をちゃんと用意しておけないものかな、とか悩んでしまう。
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どんな感情もそうだけど、まずそれを感じているということを大切にして、そのあとにやっぱり「よく観る」んだと思う。
ああ、こんなに大事に思ってるんだな。ああ、こんなに愛しているんだな。そういうのをよく見てく。見てくと細やかさが上がってきて、「ここは譲れないけど、ここは手放してもいいな」とか、ちょっと変わってくることが多い、と思う。
そこまでいくと「苦しみ」というフェーズは抜けてくることも多いと思う。
苦しみから逃れようとしても、なかなか逃れられるものじゃない、と僕の経験則は言っている苦笑。「苦しんでいる自分」を抱きしめて、大切にして、なんだったらちょっと褒めてあげて、そうやって「苦しみ」なるものと付き合うのが、僕のお勧めです。