論破
論破がもてはやされている、らしい。
有名人とかの影響もあって「論破カッコいい」みたいな若い人たちもいる、らしい。
どれくらいホントにそうなのかは分かりませんが。
論破、というものにも、質の高いものと、質の低いものがあると思います。
質の高い論破というのは、言うなれば「将棋で勝つ」みたいなことで、本当にもう相手が「参りました」となるわけです。
相手の差し手を受けて、読んで、受けて、そして指し勝つ。
これはもう「参りました」と言うしかないわけです。
質の低い論破というのは、例えば「そもそも将棋に勝つことなんて、人生で価値がありますか?」とか言ってきてみたり、わけのわからない角度から色んな事を言い放って、相手が「この人は何を言っているのだろう?何が言いたいのだろう?」と混乱して、言葉が出なくなってしまう。
そのタイミングで「もう反論できませんね?じゃー私の勝ちです」みたいな話をしたとしても、何に勝ったんだか全く分からないし、それを論破と言うなら、その論破にどんな価値があるのか私にもよく分かりません。
僕は高校時代にディベートを教わりました。本当にディベートを教わったことはよかったなと思っていますし、ディベートの感覚を持っていない人が多いことには問題意識も持っています。
ディベートのことを「論破する技術」と勘違いしている人がいますが、ディベートは「両論から吟味するプロセス」です。
賛成派、反対派の立場から、それぞれ徹底的にメリット・デメリット洗い出そうとするプロセスです。
ディベートが日本の社会生活の中で活用されているのは裁判で、裁判は原告・被告の立場から、両面から徹底的に適切な刑の重さを検討します。それによって「最善の量刑」を導き出すプロセスです。
決して「相手を論破できる弁護士が偉い」というようなことではないのです。
論破できる、ということはカッコいいとか、そういう面もあるかもしれませんが、論破する、特に質の低い方の論破なんて、人生の役に立つことはまずありません。
かくいう僕自身、論破王みたいなところがありました。
小学校、中学校と「口げんかになったら負けない」みたいなタイプだったんですが、その結果「石川とはしゃべりたくない」みたいなことになるわけです。
当然と言えば当然ですよね。
「相手を論破できても、全然自分の人生幸せにならないな」という教訓は、僕自身、自信を持って伝えられることです。
相手といい関係性を築こうと思ったら「論破」なんてほとんど役に立たないんです。特に、質の低い論破は、害にしかならない。
質の高い論破、は意味があるときもあるでしょう。
しかし「質の高い論破」は、最初に出したように「将棋で勝つ」ようなものです。相手の差す手を、全て受けきって勝つわけです。それはつまり、ディベートのプロセスを丁寧にやるということです。それはつまり、相手の言い分にも十分に耳を傾けながら行われるプロセスだということです。
ディベートは「相手を言い負かそう」として行うプロセスではありません。「共に生きる人間として、最善は何か?」を導出しようというプロセスです。そのプロセスを丁寧に行おうとする人は、たぶん論破王とは呼ばれないでしょう。