個人の責任なのか、社会の責任なのか

私の中で、ずっと重要な位置を占めている問いの一つが

「それは、個人の責任なのか、社会の責任なのか」ということです。

で、たぶん今の社会は「個人の責任だ」に寄り過ぎている、と感じています。自己責任の時代。

村社会から個人主義にシフトしてきたとなれば、それはもちろんそうなってきたでしょうけれども。

評価制度が年功序列じゃなくて、成果主義になるとか。
就社じゃなくて就職だと言われるようになるだとか。

そういうのも「個人の責任だ」という方向になってきていることだと思います。

マイケルサンデルの「実力も運のうち」とか、一昔前の「希望格差社会」とかは、この辺に一石を投じたものだったと思います。


例えば「テストの点数の悪い小学3年生」がいたとして、それは個人の責任なのか。社会の責任なのか。

勉強机が家にあるAさんと、
勉強机が家にないBさんは平等なのか。

親が「勉強することは素晴らしい」と言うAさんと、
親が「勉強なんて役に立たない」と言うBさんとは平等なのか。

勉強しかある意味することのないAさんと、
弟妹たちの世話までしなければいけないBさんとは平等なのか。

仮に、このときAさんがテストで90点をとって、Bさんが40点だったときに、それはBさんの責任だと言えるのか。


これが、会社だと話が違う、というのは分かります。

みんな同じ入社試験を受けて「スタートラインは同じだ」というところか始まって、

だから、営業目標400万円のところ、営業成績が500万円のAさんと300万円のBさんだったら、それは「Aさんの方ば素晴らしい」ということになって、Bさんは「努力が足りない」と言われても仕方がない、ということです。

個人の責任だと。

でもこれが、入社10年目で「親が要介護になった」とか「子供が交通事故にあって看病が必要」とか、そういう背景があって、営業成績が落ちたときに、それは「個人の努力不足の問題」となるでしょうか。

「それは個人の責任だ」
と言える範囲っていうのは、いったいどこで線引きするのが適切なんでしょうか。


しかし、何でもかんでも「それは個人の責任じゃない」「その人の背景には、その人のコントロールできないものがあるから」で片づけてしまうのも、それはそれで暴論です。

ちゃんと100点を取った時に「(あなたが)頑張ったからだね!」と言われたい、言われたら嬉しいということもあるでしょう。

もしオリンピックで金メダルを取った時に「それを取れたのは、努力できる性格を授けてくれたことも含めて、全て周りの環境のおかげです。両親、コーチ、トレーニング費用を出してくれたスポンサー、国、つまりは税金をおさめているすべての人々のおかげで、あなたが努力したから取れたわけではありません」と言われたら

「えー」

って気持ちが湧いてくるんじゃないかなと思います。


「ここで線引きをできる」という正解に出会ったことがまだありません。

ただ「対話をする」ということが、適切な緩衝領域のようなものを生み出していくことは実感しています。「この売上1億円って、誰におかげって、そんな簡単には言えないよね」って対話した社員・経営陣がみんな思う、みたいなことです。

社会全体で行くと、いわゆる"社会的弱者"とされる存在がありますが、それも個人の責任か、社会の責任か、そんな簡単には線引きできないのじゃないかなと思います。

でも、そういうことを、ちゃんと対話していければ、なにかがよりよくなっていくのだと思っています。そういう対話を、Social Dialogueでやっていきたいと思っています。(久しぶりに次回は12/13にやるのでご興味あればぜひ)

それとソルフィア財団という構想があって、これは2026年スタート予定なんですけど、様々な社会課題に取り組んでいるNPOさんとかにお話を伺って、寄付をさせていただくというようなこともしたいなーと思っています(やりたいやりたいと思って、ずっとスタートできてないんですけど。2026年には始められるように来年準備します)

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