ヒューマンセンタード その二
戦後の日本社会は、高度経済成長期に現わされるように「成長神話」を世界でも率先して実現してきた社会と言えるかもしれません。
前回書いたように「GDP増を国全体が追いかける」というのが機能していた時代とも言えます。
そのような社会においては、個人は「経済成長に貢献する人材」であることが自然と求められていました。私自身も、多分にその空気を吸って育ってきたように思います。
年収、という一つの指標があります。
年収が高い、ということは「付加価値の高い人材である」とされ、年収増を目指すことが奨励されてきたように思います。
そして実際に年収が増えることで、豊かな消費活動を行うことができるようになり、個人としても豊かさを実感できたものかと思います。自家用車を買えなかったのが、買えるようになる。カローラしか買えなかったのが、クラウンに乗れるようになる、そうして「より豊かになっている」と実感できていたと思います。
そして、このような状況においては、企業は、「大量生産・大量消費」を支える存在として重要でした。
TVを中心としたマスメディア(ほかにも雑誌や新聞など)が、広告の機能を果たし「これが豊かなライフスタイルである」とマスに向けて発信していたと思います。
売上を伸ばし、コスト(原価)を低下させ、利益を伸ばすことで収入も増やしていく。この基本ロジックをもとに、社会全体が駆動していたと言ってもよいと思います。
製造業の存在感が大きかったこともあり、その思想や価値観が、産業界全体に広がっていた時期であるとも言えるかと思います。
大量生産を効率的に行うために、労働者は「効率的な労働力」であることが求められました。
実際には、セル生産方式など、人間性を加味した労働環境が、特に日本ではよく考えられていたと思いますが、大きなトレンドとしては「効率的な労働者」であることが重要で、企業経営は常に効率性を追求してきたと言って差し支えないと思います。
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しかし、大きなトレンドは変化していました。
まず、1975年あたりに日本社会は出生率が2を切るようになっていきました。
これは国内市場が拡大トレンドから変化した重要な一つの指標であると考えます。
1990年ごろから日本のGDPはほとんど成長しなくなりました。
失われた20年、などと呼ばれていますね。
市場原理に基づき「コストを下げる」ことを実践していった結果、人件費の安い海外で生産するという流れも起き、国内の雇用や賃金も伸びなくなっていきました。
今思えば、この頃はもう明確に、社会の転換点であったのだろうと思います。
物質的豊かさ(家にテレビがある、洗濯機がある、車があるといったこと)については、もはや飽和していたと言っていいでしょう。
しかし慣性の法則と言ってもいいのかもしれませんが、「経済成長してより豊かになる」という概念は、社会的に言っても、個人レベルでも、そう簡単には変わりませんでした。
しかし
・人口拡大が止まったこと
・経済活動の環境問題への悪影響が注目されるようになったこと
・物質的にはかなり飽和状態になったこと
などから、日本社会の流れは変化してきたものと思われます。
例えば、シェアカーというものはかなり普及しました。
「自家用車を所有する」ということが、ステータスや幸せの形であったものが、若者は「使いたいときに使えればそれでいい」という新しい価値観によって生きるようになってきました。
もちろん現在は様々な価値観が入り乱れている状態と言えますが、昭和の時代ほど「こうしていけば幸せ」と、みんなが思っているというほど一枚岩ではないと思います。
企業も「業績拡大による、昇給の約束」がしずらくなってきました。
終身雇用も、年功上列も崩壊してきました。
ますます「がむしゃらに頑張って、とにかく出世して給料を増やす」という感覚は、社会の中から薄れつつあるように思います。
私は、2008年からのリーマンショックも一つの契機であったと考えています。
就活塾の仕事をしていましたが、リーマンショック後の学生は「会社に尽くせば報われる」という感覚をほとんど持っていませんでした。
実際に身近な家族や親族が、終身雇用を信じていたにもかかわらずあっさり解雇されるといったことが多発していたからです。
「会社の業績向上に貢献しよう」といった意識は希薄になり、「自分の身は自分で守らなければいけない」という意識が強くなったことでしょう。
その少し前の小泉内閣時代には「自己責任」という言葉が多用された印象があります。
この辺りも社会意識の変化に影響があったのではないかと思います。
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SNSなどが登場しだすと「参加型」の雰囲気はより一層強くなりました。
それまでは「提供する企業」と「消費する個人」が明確に分かれていましたが、例えば、ナイキが「ユーザーがデザインして、ナイキが靴を作る」といった形式のビジネスを始めてみたり、
農地が、都市部の人間に土地を貸し「農業をする体験」そのものが価値であるというようなことも起こり始めました。
企業が提供した完成された高級品を所有することが「豊かさの証」であったものが、徐々に変化してきています。
地産地消といった概念もどんどん進化していっており「地元のレストランで、地元の農家の素材を、地元の人間がおいしく食べる」といったことも増えてきています。
これは単に「高くておいしいものを食べる」という金銭的価値だけで成り立っているわけではありません。
「支えあって生きていく」や「感謝を感じながら食べる」といった、非金銭的価値の比重が高まってきているわけです。
こうなってくると、企業活動も変化が求められてきます。
効率性を重視して大量生産されたものは、価格優位性はあるかもしれませんが、「価値」という意味において、高い評価を得られなくなってきます。
これから、10年、20年と時代が流れていくと、ますます「価値」の比重は変化していくものと思われます。
ロボットのように効率的に対応ができる、ということは付加価値になりにくくなってきます。実際にコールセンター業務などは、AIが自動応答するという場面が着実に増えてきています。
AIには実現できない「人間味」「人間らしさ」といったことが”実感できる”ことが、企業活動の重要な付加価値となってくるでしょう。
そうすると以前のような「効率的な労働力」ではすまなくなります。
人間が、人間としての感性や情動を十分に刺激されたり育まれたりすることが、企業や職場にとっても重要になってきます。
そしてその流れは「1週間の大半の時間を職場で過ごす」人たちにとって、人間性を回復していくむしろ福音ともなるのではないか、と個人的には考えています。