自動詞と他動詞
国語の授業的な意味での定義はちょっとおいておいて。(その定義での自動詞、他動詞、使役とかはそれはそれでちゃんとありますが、気になる方はググってみて下さいね)
例えば
生む
生まれる
生ませる
っていうのがありますよね。当然ですが、全部ニュアンスが違います。
生ませる、は、使役ってことになりますが、僕の古巣は、この使役的表現をとても嫌っていました。
人が人をコントロールするとか、人が人を支配するとか、そういうようなニュアンスのことがとても嫌いな人たちだった、という印象を強く持っています。
ある時、新入社員(中途)が入ってきて、相互理解を深めるのにペアインタビューというのをやったんです。
そのとき、前からいたA社員がインタビューされて、新入社員がインタビューをする、という組み合わせになっていて(全体が奇数だったので、僕はそのペアのところにいて3人組になってました)。それで、ペアインタビューでは「インタビュー結果を、他の社員に紹介する」ってことになっていたので、その新入社員は、もちろんインタビュー結果をみんなに紹介しました。
紹介が終わったあと、A社員は、若干涙目になりながら(笑)「ちーーーがーーーうーーーー」と言ってました笑。とてもよく覚えています。
なんで、そんな涙目だったかというと、新入社員の紹介がこんな感じだったんです。
「そこでAさんは、お客さんにXをやらせました」
「また、ある時には、Yだと思わせるようにしかけました」
「Aさんは、また他のお客さんにZをさせました」
その紹介を聞きながら、私は苦笑してしまいました。その苦笑の横で、Aさんは涙目だったわけですが。
実際には、インタビュー中には、Aさんは「させる」という使役の言葉を一切使っていませんでした。
「お客さんにXをしていただいたのね。」「Yだと思っていただけるように、働きかけたことがありました」「Zをしていただけないかと、お願いしました」みたいな表現だったわけです。
でも、新入社員はそれを上記のように表現しました。そしてAさんの「ちーーーがーーーうーーーー」という言葉を聞いても「???」ときょとんとしていたんです。
何が違うのか、分からなかったんですね。(当時の)本人の中では「していただく」と「させる」の違いが、ほとんどなかったわけです。
むしろ、上司が「させる」とか、プロジェクトメンバーに「させる」ということが普通だったわけです。
でも、このことが笑い話とは言え、強烈に記憶に残るほどに、古巣は使役的表現を好まない人たちでした。言葉には、思想や態度が現われます。「させる」ことができると思っている人たちは、普通に「させる」と使いますし、それは本質的にはできないのだとか、するべきでないと思っている人たちは、まず「させる」ことを日常の中でしないように注意していますし、言葉としても出てこないわけです。
古巣は「生ませる」とは、やっぱり言わないなぁ、と懐かしく思います。
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生む、と、生まれる、というようなこともある意味同じように、ニュアンスの違いが大切にされていたなと思います。
古巣は、自分を超えて全体における自己組織化といったことをとても大切に思っていました。
そうだったときに「生まれる」というような表現(日本語で言う自動詞)がよく使われていました。
例えば「みんなで話し合って、結論が生まれた」というような感じです。
これ他動詞的表現になるとすると、以下のようになります。
「私が主導して、結論を導き出した」
このニュアンスの違いが、とても大切にされていたのをよく覚えています。その影響を、私は多分に受けているなと思います。
同時に「良いと思ったことを自分が(リスクや責任を負って)能動的にする」というようなことも、とてもとても大事にされていましたから、「やらなきゃいけない」とか「させられた」みたいな表現も、嫌われていたような記憶があります(こっちのほうがおぼろげですが)。
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所詮言葉なので、言葉にとらわれずぎないでよい、という気持ちもありつつ、神は細部に宿るではないですけれど、根本的な世界観や捉え方などが言葉の端々に現れてしまうのだよなぁ、ということもまた、思ったりするわけです。