直観の溜息 ~ハルヒシリーズ・メタフィクション覚書~
9年半ぶりに発売されたシリーズ最新刊『涼宮ハルヒの直観』収録の新作『鶴屋さんの挑戦』に関する考察です。
先日めでたく約九年半ぶりに刊行された『涼宮ハルヒシリーズ』最新刊『涼宮ハルヒの直観』ですが、これまでの通例に漏れず複数編が収録された巻とあって比較的SF要素が薄く日常編のテイストの強い一冊となっています。公式のキャッチコピーが「不思議も異変もない日常を、ハルヒとSOS団の「直観」が読み解く!」(注1)だったことや、『鶴屋さんの挑戦』(以下『挑戦』)冒頭で古泉くんらがミステリ談議に花を咲かせていることなどもあって、日常ミステリものと理解して読んだ方も多いんじゃないでしょうか。
注1: ザ・スニーカーWEBの『涼宮ハルヒの直観』ページ(https://sneakerbunko.jp/product/haruhi/322007000029.html)など。
そのせいか、書き下ろし新作である『鶴屋さんの挑戦』の感想をネット上で探すと「ミステリの最後にハルヒ的SF要素を絡めただけ」「『涼宮ハルヒシリーズ』でなくても成立する話を無理矢理『ハルヒ』でやっただけでは」という類の感想も散見されました。また同程度かそれ以上に多かったのが「短編集だからメインストーリーが進まなそう」という読む前の印象コメントや「進まなかったから残念」という読後の感想です。
確かに『挑戦』は『消失』や『分裂』『驚愕』のような時空を駆ける物語ではなく、ほぼ高校の部室内で終始するスケールの小さい話なので、そういった感想を持つのも致し方ないと思います。あとがきにある通り「なにを感じるかは読者の自由であり、それは彼らしか得られない個人的な経験」(注2)です。
注2: 『直観』413ページ
ただし、各読者の読解力が作品を理解をするのに十分であるかどうかは作品も作家も保証してくれません。ある人にとってイマイチと感じられた作品の質が客観的に見て高いか低いかは往々にして別問題です。第一に相性の問題がありますし、有体に言って「それはあなたが理解できていないだけでは?」というケースもあります。余程自分の能力に自信がない限りは「この作品はイマイチ」などとは言うべきではなく「自分には向かなかった」と言い換えるべきです。
では、それなりに本シリーズを考察してきたと自負するわたくし(尊大だな。けど謙遜しても話が進まないのでここはひとつご容赦ください)にとって『挑戦』が面白かったかどうかと言いますと、これは大変に面白く、かつシリーズを大きく展開させるドラスティックな一編だったと感じました。比喩ではなく本当に胸がドキドキしたくらいです。ですので先述のような「ミステリを無理矢理ハルヒでやっただけ」「物語が進まなかった」という感想については、「そうでしたか、あなたに『挑戦』はちょっと早かったのかもしれませんね」というのが、感想に対する私の感想になります。
と、根拠もなくネットのレスバトルのようなことを書いても仕方がありません。以下、本稿では私が『挑戦』が面白かったという点をいくつかピックアップして説明したいと思います。
もちろん、私の説明を読んだ上で改めて『挑戦』を面白いと思うかは別問題、というか各人の問題です。ですが、せめて「こういう構造を持ったお話だよ」「シリーズの中でこういった意味付けを持った話だよ」ということくらいは理解した上で、それでも客観的に面白くないと言えるのか、自分に合わなかっただけなのかを判断していただきたいなと思う次第です。
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『挑戦』の内容は大きく三つのパートに分けられます。一つ目が古泉くんらによるミステリ談議パート、二つ目が鶴屋さんの挑戦に挑む謂わば本編パート、三つめがキョンと古泉くんが手洗いのため離席した(注3)後のキョンの考察パートです。
注3: 余談だが、本当に手を洗っただけだった。
「ミステリの最後にハルヒ要素をくっつけただけ」「ハルヒでなくても出来た話では」「メインの話が進まなかった」という類の感想は、いずれも考察パートだけがハルヒシリーズに即した内容であり、ほぼ大部分を占めるその他のパートにハルヒシリーズ的要素が見られない、またはその要素が薄いという印象に起因していると思われます。
事実、ミステリ談議パートは128ページから157ページ1行目までの約30ページ、本編パートはそこから395ページまでの約240ページ、考察パートはさらにそこから411ページまでの17ページですから、割合でいえば考察パート1に対しミステリ談議パートはおおよそ2、本編は16となります。
もしこの通りの割合なら『挑戦』におけるハルヒっぽい要素は全体の1/19、18/19がミステリ談議またはミステリ本編となり、確かに『挑戦』はハルヒっぽくない話であると言えるでしょう。
ただし、それは冒頭のミステリ談議を文字通りそのまんま、古泉くんらのミステリオタクトークと見做した場合の話です。実際には『挑戦』は冒頭からハルヒシリーズ特有の要素がカモフラージュされてビシバシ出てきます。そして、それを読み解くためにはまずハルヒシリーズにおけるメタフィクション性について理解しておく必要があります。
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ここで本来であればメタフィクションとは何かという識者の意見や議論を引用したいところですが、あまりに膨大かつ意味が幅広いため今回は便宜的にgoo辞書の力を借りますと、メタフィクションとは「小説について考える小説。小説を批評する小説」(注4)という事になります。
注4: goo辞書(https://www.goo.ne.jp/)「メタフィクション」の項より。
「メタ」とは「高次の」という意味の接頭語であり「フィクション」はいわゆる作り話のことですので、メタフィクションは「物語そのものではなく、物語を外(上でもいいいです)から見た物語」、くらいの意味で捉えるといいかもしれません。
ただ、これだけですといまいち何なのかが分かりにくいため、それがもたらす効果についても知る必要があります。そこでまたwikipediaの力を借りますとメタフィクションの効用とは「それが作り話であるということを意図的に(しばしば自己言及的に)読者に気付かせることで、虚構と現実の関係について問題を提示する」(注5)ことだとされています。そしてハルヒシリーズはしばしば「メタフィクション的」「メタSF」「メタラノベ」と評される作品でもあります(注6)。
注5: wikipedia(https://ja.wikipedia.org/wiki/)「メタフィクション」の項より。
注6: 「ラノベのなかにもメタフィクションみたいなのがあるしねえ。『涼宮ハルヒの消失』か? あれなんかそうだよね。」(「「創作の〝掟〟を打ち破る力」——筒井康隆インタビュー」、cakes、https://cakes.mu/posts/7763)等。
なお、類似するものとして「メタ発言」「メタネタ」というものもあります。これは『ドラゴンボール』の「もうちっとだけ続くんじゃ」や『ジョジョの奇妙な冒険』の「勝ったッ! 第3部完!」のようなもので、物語の外部に私たち読者の世界が存在しており、お話はお話に過ぎないという事を受け手に突き付けるタイプのギャグを指します。メタフィクションとメタ発言やメタネタの違いは、後者が一種の息抜きによる笑いを喚起するのが狙いでありそれ自体は作品性の根幹には関係がないのに対し、前者は「虚構と現実の関係について問題を提示する」という目的が作品性に関与しているという点でしょう。
話をハルヒシリーズに戻しますと、本シリーズはそういう意味でメタフィクションともメタネタともとれる要素を最初から多く持っています。みくるちゃんや長門が『憂鬱』当時流行だった萌えキャラ、クール系キャラをあえて演じているかのような属性てんこ盛りキャラとして登場し、あまつさえハルヒがそれをして「萌えよ萌え、いわゆる一つの萌え要素」(注7)と宣言するのも、まるで『ハルヒ』の世界の外、われわれの世界にある数多のラノベや漫画やアニメをハルヒが参考にしたと言わんばかりです。
注7: 『憂鬱』60ページ
もちろん、これだけだと単にメタネタ、もしくは「現実世界と同じくハルヒの世界でも萌えが流行っていたという設定なだけでメタネタとはいえないのでは?」と考えられます。ですが『憂鬱』の場合、古泉くんが語る通り、作品世界そのものがハルヒの希望に即して創造または改変されているのかもしれないという設定があります。そのためこれらは単なるネタではなく、そこに付随するメタフィクション性が作品のテーマの根幹にも関わっているのかもしれないと考えられるのです。
その観点で一度完読した『挑戦』を読み直すと、ミステリオタク同士の他愛もない会話として始まった冒頭のミステリ談義パートが、だんだんとハルヒシリーズそのものについて言及しているのではとも取れるメタフィクション性を有していることに気付かされます。
メタフィクション性を意識しながら読み進めていておそらく最初にぶつかるのが、「読者への挑戦」について古泉くんが言及し始めた辺りの
「このあたりは、読まないと解らない、と言うか、理解するには最初から『シャム双子の謎』を『国名シリーズの内のこの作品にだけ読者への挑戦状がないのは何故か』と思索しつつ読み進める必要があります」(注8)
注8: 『直観』139ページ
という箇所でしょう。何故なら、今あなたは「このあたりは、読まないと解らない、と言うか、理解するには最初から『鶴屋さんの挑戦』を『ハルヒシリーズにメタフィクション性があると言えるのは何故か』と思索しつつ読み進め」ている最中のはずだからです。物語の中にいるはずの古泉くんが、急に読者の気配に気付いてこちらをチラッと見たような、そんなギョッとする感覚を覚えないでしょうか。
また、作者である谷川先生が彼にこういう発言をさせているということは、本作自体もそのように読まれ得ることを想定していると考えられる、ということでもあります。
続く後期クイーン問題も同様です。私は試し読み版を読んだ上で「『彼女』の正体はT」「鶴屋さんとTはグル、というか二人は同一人物」という結論に達していました(注9)。試し読み版を読まずとも本編パートを読み進める過程で「ハルヒシリーズには外国人女性キャラに該当するのはTしかいないんだから『彼女』の正体はTではないか?」と思った方も多いでしょう。ハルヒシリーズの作品世界内には何億人もいるはずの金髪少女の中からTだけを選べるのは作品外にいる私たちならではですし、それこそがまさに後期クイーン問題の論ずるところです。
注9: 詳細は「考察『鶴屋さんの挑戦』試し読み版~我々は鶴屋さんを信用していいのか?」(SOS団東京大学支部活動報告その9掲載)参照。なお『挑戦』では鶴屋さんとTが同一人物であるという結論にはなっていないが、実際はそうである可能性をハルヒのエピソード1読後の直観的指摘や長門の最後の視線が示唆している。
また、このことは考察パートにてキョンが「鶴屋さんの作り話と現実の自分たち」という関係から『彼女』の正体をTに絞り込むという形で作中で再現されています。鶴屋さんの作り話の世界とキョンたちの世界という関係性は、そのままキョンたちの世界と私たち読者の世界と置き換え可能です。いっこずつ次元が違うだけの話です。
そして、古泉くんは上述のような半ば反則的な思考過程を経て読者が先に『彼女』の正体に気付くことを想定していたかのように、ミステリ談議パートで先に
「要するに、読者が途中でなんとなくこいつが犯人のような気がすると思ったとして、そしてそのキャラが真犯人であったとしても、作者としては読者に負けたとは思わないし痛くも痒くもないよ」(注10)
注10: 『直観』145ページ
と言ってしまっているのです。私はこれにはギョッとしました。「こいつ……こっちに気付いているなッ!」という次第です。当然気付いているわけはないのですが、作者に先読みされているのは間違いないでしょう。
同様に、古泉くんによる「『読者からの挑戦』を含むミステリには、作者と同名の人物がいることが望ましい」「ページの途中で作者が出てきてメタレベルからの意見表明をすると、どうしてもそこで物語への没入感が削がれてしまう。現実に引き戻されてしまいますよね。これが登場人物の名前でなされたらどうでしょう。自然に読み流すことができるのではないですか」(注11)という発言もかなり過激です。
注11: 『直観』152ページ
ハルヒシリーズ内に谷川流という人物は登場しませんが、もしかしたらその名を持っているのかもしれないと思われる人物が少なくとも一人は存在します。それはもちろん、主人公のキョンです。彼は未だ本名が明記されていませんし、ハルヒシリーズの舞台のモデルとなったのは谷川先生が高校生活を過ごした兵庫県西宮市(注12)です。谷川先生がキョンを通じて読者に語り掛けてきたとしても不思議はありません。実際、キョンは読者への挑戦状を叩きつけたりはしないものの、『消失』での下記の発言のように読者に直接問いかけるシーンは存在します。
注12: 「谷川さんがシリーズ第1作「涼宮ハルヒの憂鬱」の執筆時に「02年からおよそ十数年前の(西宮市の)町並み」をモチーフにしたこと、そして西宮市そのものを舞台にしたものではなく、あくまでもモデルであることを明かしている」(「涼宮ハルヒ:作者・谷川流がゆかりの地・西宮への思い語る 企画展でメッセージ展示」、まんたんウェブ、https://mantan-web.jp/article/20121026dog00m200046000c.html)
ここで質問だ。キミならどちらを選ぶ? 答えは明らかなはずだろう。それとも俺一人がそう思っているだけか?(注13)
注13: 『消失』238ページ
この発言が、キョンを媒介した作者自身から読者へのメッセージと捉えても文脈上何の違和感もありません。
さらにTは「一人称と三人称は究極的には同じもの」、古泉くんは「三人称は作者と読者の対談だとも言えそう」とも言っています。つまり『消失』での上述のシーンに顕著なように、ハルヒシリーズは部分的にキョンを介した谷川先生と読者の対談だと言っているようなものです。
以上のように、ミステリオタク同士のダベりに偽装してシリーズの根幹設定についてバンバン手の内を明かしているとも読み取れる、しかしシリーズ恒例のように確証は得られないのが『挑戦』冒頭のミステリ考察パートなのです。「作者はミステリ語りがしたかっただけだろ」「ハルヒでミステリをやってる」どころではなく、むしろ「ミステリでハルヒをやってる」のです。
では『挑戦』のほぼ大部分を占める本編パートはどうなのかというと、ここにもメタ要素が多分に仕組まれています。
私が一番「は?」と思ったのは、ハルヒらが鶴屋さんからのメールをプリントアウトして考察する際「ほら、『ここまで乗って来たハイヤーが待っていた。あたしたちが泊ってるホテルが手配してくれたやつさ』(p208)って書いてあるでしょ」(注14)などと該当ページをカッコ抜きで指定してくるところです。
注14: 『直観』231ページ
ハルヒたちが作中でプリントアウトした紙は200もあるとは思えませんし、p208が指し示している個所は実際には私たちが手にしている『涼宮ハルヒの直観』という本の二百八頁に記されています。じゃあハルヒたちが手にしているのは何で、(p208)ってセリフだか記述だかはどこから出てきたんだよ、と突っ込みたくなるところです。『編集長☆一直線』でもキョンの執筆した恋愛小説の文中に古泉くんが記入した注が書き込まれていましたが、その手の作中と作品外を越境した表現をより押し進めて、読者もハルヒたちと一緒に謎解きに参加せよと言わんばかりの記述です。ここまでに十分メタフィクション性を匂わされていたこともあって私は仰け反りました。
メタフィクション性を使った笑いどころもあります。
「物語の途中で鶴屋さんのセリフが唐突にカギ括弧付きで書かれるようになった理由について、か。でもね、キョン。これってわざわざ理由を問いたださないといけないほどの問題?」
それこそ恣意的すぎるだろ。セリフがあるなら最初からそういう風に書いたらいいし、なしで通すのなら最後までまっとうすべきだ。(『直観』二百五十一、二頁)
ここなど「地の文での発言とカギ括弧付きの発言を兼用するのが常套のお前が言うな」というツッコミ待ちとしか言いようがありません。メタフィクションというより本作ならではのメタネタと言ってしまってもいいでしょう。
また290ページ以降の、Tの質問にキョンが出まかせの嘘を教え長門が訂正するコメディタッチのくだりで、キョンがわざわざ地の文で嘘を教えてるのもポイントです。
先述の一人称と三人称の対比の議論の箇所でTは一人称と三人称は究極的には同じなのだから三人称で嘘をついても構わないと言い、古泉くんに「自由すぎませんか」と反論されていました。その当のTが、一人称の文体の中では比較的三人称的ニュアンスが強い(読者が無意識的に客観的事実だと思いやすい)地の文で嘘をつかれているわけです。実際、「コザイク」ではキョンに騙されてしまい「フーコーメービ」の辺りで「あ、こいつ地の文でいかにもそれっぽく嘘言ってやがる」と気付いた人も多いのではないでしょうか。(注15)
注15: なお、キョンの言う『資治通鑑』という歴史書は実在する。キョンは嘘に真実を混ぜてそれっぽくするのが上手い。
321ページの古泉くんの「これがミステリ小説ならば、ここらで『読者への挑戦』が挿入されるタイミングですが……」(注16)という発言も非常にメタ的です。実際にこの箇所までに鶴屋さんからの出題情報は出揃っているので、ここで読み進めるのを止めれば読者は自分で鶴屋さんからの問いの答えを考えることができます。
注16: 『直観』321ページ
かように、純粋なミステリ編のようにも読める本編パートにさえ、メタ的要素は多分に含まれています。そしてこれらのメタ要素が最後のキョンと古泉くんの考察パートで活きてくることになります。
トイレに向かう道すがらで古泉くんが話したチェーホフの銃という物語の創作手法、要するに「伏線は使え、伏線でないなら最初から意味深なものを出すな」ということですが、キョンはこの話から、さも自分の世界が創作されたものであることを自覚しているかのように、『陰謀』で鶴屋さんに預けたオーパーツについて思い出しています。メタだ何だと意識していなくても、この個所を読んで「谷川先生よ、自分でこういうことを書くってことは、ちゃんと続きを書いて伏線回収する気があるんだろうな?」と思った方も多いでしょう。ラスト数ページに至ってキョンは最早『挑戦』が、ひいてはハルヒシリーズ自体がメタフィクションであることを隠そうともしていないわけです。
それに続く、古泉くんがハルヒの能力の暴走を危惧するシーンでは以下のような発言があります。
「仮に涼宮さんが犯人当て推理小説の探偵役だとしましょう。そして彼女は、物語構造の内部にいながら物語を恣意的に書き換えてしまう能力がある。するとどうなるか。ストーリーの展開は作者でも読者でもなく、一人の登場人物の無意識と直感により、変容してしまうのです」(注17)
注17: 『直観』404ページ
古泉くんは「犯人当て推理小説」とジャンルを指定していますが、「仮に涼宮さんが小説の登場人物だとしましょう」と置き換えても文意として何も変わりません。つまり、作者である谷川先生や私たち読者の思惑を超えてハルヒが用意された物語を書き換えてしまう可能性があるということを、作中の人物である古泉くんが危惧しているのです。
作品の登場人物が現実世界に干渉してくることなどあり得るはずがない、と思う方もいると思いますが、実際にはあり得ます。創作に携わった経験のある方ならばピンとくるかもしれませんが、自分が書いた物語の登場人物が作者の思惑を超えた行動をし始めるという事は往々にしてあります(ただし、古泉くんが危惧しているのはそういったレベルのことではないのかもしれません)。
また読者の中にも、作品中のキャラクターに過ぎないハルヒたちに様々な面で人生を変えられたという方は多いのではないでしょうか? それだってハルヒが次元を超えて高次の存在(つまり私たち読者)に干渉し、こちらが意識しないうちに世界を変容させた結果だと考えることもできます。
以上のように、『挑戦』は単なるミステリ編ではなくシリーズ全体に関わるメタフィクション性をいよいよ前面に押し出してきた、過激な一編であることが分かっていただけたかと思います。私が「ミステリの最後にハルヒ要素を足しただけ」「ハルヒでなくても成立する話」「話が進まなかった」といった作品評(注18)が的外れであると考えるのは以上のような理由からです。
注18: 感想なら問題ありません。個人的な感想は常に自由です。ただし、個人の自由な感想はその人の読解力からは自由ではありません。
ここまで読んでも「こじつけの深読みでは?」「ハルヒってそんな話じゃなくない?」とお思いの方もいるかもしれません。そんな方はぜひシリーズ二作目の『涼宮ハルヒの溜息』を再読されることをお勧めします。
『溜息』は「小説の中で映画を作る」つまり「物語の中で物語を作る」というメタ構造の話なのですが、特に最終盤で怒涛のようにメタフィクション的設定の数々が主に古泉くんによって語られます。その発言は多くがアニメ版ではカットされているので、既読だけど印象に残っていないという方も多いでしょう。そのような場合でも『挑戦』を疑いながら読んだ後であれば「えっ、こんなメタい話だっけ?」「やけにギリギリな話をするなあこいつら」と感じられると思います。『溜息』はシリーズ二作目にしてかなり攻めた内容のエピソードであり、その内容を久々に濃く継承しているのが『挑戦』なのです。
なお私は現在『溜息』の内容にフォーカスした考察本『精読・溜息』を刊行準備中です。それを副読書にしていただくのもいいかもしれませんので、他人の『溜息』の感想や考察を読んでみたいという方はぜひ楽しみにお待ち下さい……ということで、実はこの文章自体が実は大いなる次回作宣伝だった、というオチです。『精読・溜息』、ぜひご期待ください。
最後にもう一つ。
ハルヒシリーズにおけるメタフィクション性には非常に大きな危険性があります。作品世界の外に私たち読者の世界があることを明確にする事は、彼ら登場人物の人生が誰かの創作に過ぎず、キョンやハルヒたちの青春や葛藤や成長なども一度「全部作り話だったとさ」と宣言することと同義です。『憂鬱』に端を発する本シリーズが非常に優れた作品メッセージを有していることは拙著『精読・憂鬱』等に書いていますが、そういった作品テーマやメッセージ性も大なり小なり損なうことになります。読者が想いを寄せる優れた青春小説であることとメタフィクションであることは相性が悪いのです。だから私は本シリーズのメタフィクション設定があまり好きではなく、これまであまり重視してきませんでした。
ですが、谷川先生は今回『挑戦』でその設定を押し出してきたように思われます。今後SF的メタフィクション設定でこれまでの作品性を全部ひっくり返してしまうのか、匂わすだけ匂わして結局そこには触れぬまま物語を畳むのか、はたまたフィクションであることとメタフィクションであることを止揚させ作品性が高まるような予想だにしない展開が待っているのか、それは分かりません。
ただ、これは私の直観に過ぎませんが、谷川先生はこれまでの作品のメッセージ性を損なうような事は、少なくともハルヒシリーズではしない人のように思います。理屈も根拠もありませんが、大船に乗ったつもりでキョンやハルヒや長門やみくるちゃんや古泉くんがより活き活きと青春を謳歌してくれる展開に期待していればいいのでは、そんな風に思っています。(了)
本テキストは、2020/12/20に発行された電子書籍『直観の溜息 〜ハルヒシリーズ・メタフィクション覚書〜』を転載したものです。
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著者紹介
いしじまえいわ/石島英和
ライター・コンテンツアドバイザー
修士(社会学) ―アニメ産業研究
東京大学大学院情報学環教育部 研究生
SOS団東大支部 団員
『涼宮ハルヒの憂鬱』ファンサイト『涼宮ハルヒの覚書』管理人
主な記事掲載メディアとして『アニメ!アニメ!』(イード)、『ガジェット通信』(東京産業新聞社)、構成担当番組として『植田益朗のアニメ!マスマスホガラカ』(文化放送)など。
公式サイト http://ishijimaeiwa.jp/
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