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【試し読み】精読・涼宮ハルヒの溜息

※2021/05/15 01:35 更新

※このコンテンツは、2021/05/16発行の非公式考察同人誌『精読・涼宮ハルヒの溜息 ~非公式考察本シリーズ vol.2~』の試し読みページです。
 同人誌は各書店にて展開中です。もし試し読みで興味を持ってくださった方は、ぜひ購入リンクまとめページを覗いてみてください。
 購入リンクまとめ:http://jl.ishijimaeiwa.jp/sigh/

□まえがき

 初めましての方は初めまして、そうでない方はこんにちは。小説・涼宮ハルヒシリーズのファンサイト「涼宮ハルヒの覚書」の管理人兼アニメライターのいしじまえいわと申します。『精読・涼宮ハルヒの溜息』を手に取ってくださり、誠にありがとうございます。
 本書は角川スニーカー文庫および角川文庫から刊行中の小説『涼宮ハルヒシリーズ』の第二巻『涼宮ハルヒの溜息』を精読し、その内容を考察したものです。何故第二巻にフォーカスしたのかといいますと、シリーズ第一巻『涼宮ハルヒの憂鬱』については『精読・涼宮ハルヒの憂鬱』という形で刊行済みだからです。もしシリーズの最初から読みたいという場合は、ぜひ『精読・憂鬱』も手に取ってみてください。
 九年半ぶりに新刊が刊行され、にわかに盛り上がりを見せる涼宮ハルヒシリーズですが、最新作『鶴屋さんの挑戦』は単に日常ミステリとして面白いだけでなく、ラスト付近で語られたミステリ小説における演出手法(チェーホフの銃)とキョンが鶴屋さんに預けっぱなしにしているオーパーツの関係に見られるように、メタフィクション要素を強く想起させるエピソードでもありました。
 そんな最新作が発表された時期に同じくメタフィクション性が強い『溜息』の考察本を出すことになったのは単に偶然なのですが、『溜息』は「ハルヒシリーズにメタフィクション要素なんてそんなにあったっけ?」と思いの方には特に再読をオススメしたい作品でもあります。『溜息』を改めて読むことできっと「ハルヒってこんな話だったのか!」という新鮮な発見があると思います。

 最後に謝辞を述べさせていただきます。いつも一緒にハルヒ談義をしてくれる楽しいフォロワーのみなさん、ゲストページを寄稿してくださったくまくまさん、麺ねこさん、本書のテキスト以外の全てを作ってくれた嫁たなぬ、そして何より素晴らしいハルヒシリーズをこの世に生み出してくれた谷川流先生といとうのいぢ先生にこの場を借りて御礼申し上げたいと思います。ありがとうございます!
 では、まずは第一章・イントロダクションにお進みください。レッツゴー!


第一章 イントロダクション

□『溜息』ってどんな話?

 この章では『涼宮ハルヒの溜息』(以下『溜息』、他シリーズも同様に略式表記します)の本文の読解に入る前に、同書のシリーズ内での位置付けや評価について確認しつつ、本書における考察のレギュレーションについて確認したいと思います。

 『溜息』は谷川先生のデビュー作である『憂鬱』刊行から約四か月後の二〇〇三年十月一日に発表されました。五年ぶりのスニーカー大賞受賞作として鳴り物入りで世に出た『憂鬱』の後、「ザ・スニーカー」に掲載された短編『涼宮ハルヒの退屈』(注1)、『笹の葉ラプソディ』(注2)、『ミステリックサイン』(注3)を経て発表されたシリーズ初の新作書き下ろし長編である『溜息』がどのように評価されていたのかを、まずは見てみましょう。

注1 「ザ・スニーカー」二〇〇三年六月号掲載、なお『退屈』は短編と同名の文庫が存在するため、前者を便宜的に「短編『退屈』」と表記する。
注2 「ザ・スニーカー」二〇〇三年八月号掲載
注3 「ザ・スニーカー」二〇〇三年十月号掲載

 書籍に関する専門誌『本の雑誌』の増刊号『おすすめ文庫王国二〇〇三年度版』での特集「本の雑誌が選ぶ文庫ベストテン二〇〇二―二二〇三(注4)」のティーンズノベル部門では『マリアさまがみてる』(一位)や『撲殺天使ドクロちゃん』(十位)などの名作に挟まれて『溜息』が見事九位にランクインしています。デビューした年のうちにいきなり高評価を得ているのは大変めでたいのですが、選出されているのは『溜息』の筈なのに何故かコメントは全て『憂鬱』に対するものでした(注5)。
 同誌が二〇〇三年十二月二十日に発行されていることを考慮すると、同年十月に刊行された『溜息』を読む前に原稿が書かれた可能性があります。もしくは、インパクトの強い『憂鬱』に比べて『溜息』について語るべきことが見出せなかったのかもしれません。

注4 原文ママ。正しくは二〇〇二―二〇〇三。
注5 『おすすめ文庫王国二〇〇三年度版』二十七頁、二十九頁

 二〇〇四年一二月一七日刊行の書籍『ライトノベル☆めった斬り!』では「涼宮ハルヒ」の項(注6)にて『憂鬱』や『消失』についてそれなりの分量を割いて解説しています。が、ここでも『溜息』については冒頭の主人公がハルヒに長門たちの正体を明かすシーンの引用をするだけに留まっており、『溜息』の内容には一切触れていません。
 また、著者である大森望氏と三村美衣氏による対談「ライトノベルの現在―おたく的感性の浸透と拡散」では、ハルヒシリーズについて以下のように触れています。

 大森 《涼宮ハルヒ》もある意味エブリデイマジックだよね。学校の中でちょっと変なことが起こる。
 三村 エブリデイマジック?(笑)
 大森 一話完結式であんまり大きい話の流れがなくてっていう。四巻目なんか明らかに『ビューティフル・ドリーマー』やってるし。学校が友引町で涼宮ハルヒがラムなんだよ。
 三村 学園ものをやるとかならず……。(二百十頁)

 『ビューティフル・ドリーマー』とは押井守監督による劇場用アニメ『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』(一九八四年)のことです。実際、同作から影響を受けたことについては谷川先生自身が別の対談の中で認めています(注7)。

注6 『ライトノベル☆めった斬り!』二百五十三頁、なお現在版元が使用している「涼宮ハルヒシリーズ」というシリーズ名はまだ定着していなかったものと思われる。
注7 「谷川 高橋留美子さんの『うる星やつら』というより、むしろ無意識に出てしまっているのは、たぶん押井守さんのほうですね。『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』が好きだったので。」(『クイック・ジャパン Vol.66』「ライトノベルにおけるSF――その意味を問う 谷川流×佐藤大」百三十八頁)

 確かに「ヒロインが作り出した夢の世界から主人公たちが脱出する」という『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』のストーリーの影響がハルヒシリーズ第四巻の『消失』に見られます(注8)。一方、文化祭へ向けた準備というシチュエーションと文化祭当日を迎えて終わるという構成は『溜息』の方が近いですし、ヒロインが作り出した終わらない楽しい日常のループから抜け出すという意味では『エンドレスエイト』の方が合致しています。『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』の影響について論じるならシリーズ全体に敷衍して述べるのが妥当であるにもかかわらず大森氏がそうしなかったのは、『消失』の印象が突出していたからなのかもしれません(注9)。

 以上のことなどから、『溜息』は単体では論じにくい、または論じるに値しない作品と捉えられていた、もしくは『憂鬱』や『消失』、あるいは巻数が先行していた『学校を出よう!』シリーズなど他の谷川作品の完成度に比べて霞んでしまっていたことなどが察せられます。

注8 なお同作では校舎の構造が二階建てになったり三階建てになったり四階建てになったりと変化しているが、これが『消失』で一年九組が教室ごと消失した=校舎の構造ごと変化したことにも影響を与えているのかもしれない。
注9 現在でも『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』と『消失』との類似性を指摘する論調は多々あるが、二〇一〇年に『消失』の劇場用アニメ版が公開され、同じ劇場用アニメ作品として比較が容易になったことが影響しているものと思われる。引用部分は劇場用アニメ版公開前のものである。


□読者と作者の『溜息』評

 次に一般読者の反応も見てみましょう。雑誌『ダ・ヴィンチ』が二〇十一年七月号(つまり『驚愕』が発売された頃の号です)で公開したWebアンケート結果「ダ・ヴィンチ読者ランキング好きなエピソードTOP5」というものがあります(注10)。サンプル数が少なく信頼性が高くはないデータではありますが、エピソード単位での人気アンケートは稀有なのでこれを参照したいと思います。その集計結果の内訳は以下の通りです。

 『憂鬱』:96ポイント
 『消失』:83ポイント
 『エンドレスエイト』:30ポイント
 『編集長☆一直線』:19ポイント
 『射手座の日』:15ポイント

 ここから分かるのは、『溜息』は上位五作品に入っておらず得票ポイント数はどんなに多く見積もっても『憂鬱』や『消失』の五分の一以下だったということです。また、一位二位と三位の得票ポイント数の差から、ここでも『憂鬱』と『消失』の圧倒的二強体制が伺えます。
 なお、このアンケートはアニメ化後のものなので結果にはアニメ版の影響もあったと思われます。そういう意味ではむしろ未映像化作品である『編集長』の健闘が目立ちます。

注10 『ダ・ヴィンチ』二〇十一年七月号、二百十六頁

 さらに視点を変えてみましょう。作者である谷川先生自身は『溜息』についてどのようにコメントしているのでしょうか?
 『直観』のあとがきにて「僕は自作について語るすべをあまり持てず、内容とはできるだけ無関係のことを書いてお茶を濁していたい人間です」(注11)と述べている通り、谷川先生が自作の内容について子細に述べることは非常に稀です。ですが『溜息』については例外的に『ザ・スニーカー』二〇〇四年一二月号の記事「谷川流の挑戦 スペシャルインタビュー」にて結構な分量のコメントをされています。

注11 『直観』四百十二頁。

 以下、一部抜粋します。

 「いきなり半年ぐらい飛んじゃってますから。そのへんは、ちょっともったいないことをしちゃった気がする。」「キャラクターの心理的なもので、半年経ってるわりにはコイツらは、ってのがありましたから。」
 「やや調整不足のまま書いちゃったかなと。」(注12)

 また『憂鬱』や『消失』との執筆過程の違いについては、『溜息』が一度リテイク指示を受けていることを踏まえた上で、以下のように述べています。

 「たまに自分の中にモヤモヤッとしたものが発生するんですよ。雨雲みたいなのが。これを全部降らせないと俺の胸の内はまったく晴れないな、というのがある時はパッパッと書いちゃいますね。そうやって書いたのが「憂鬱」だし、「消失」もそういう書き方をしたから、何一つ苦労してないんです。逆に何にも雨雲もないのに、でも雨を降らせなきゃいけない、という状況に置かれると、それこそ無理矢理に雨雲を発生させなければならないので苦労するんです。そういうモヤモヤ感というのがないとちょっと書きにくい、というのはありますね。それが面白いか面白くないか、は脇に置いといて。」(注13)

 ここから、谷川先生にとって『溜息』が、各方面で評価の高い『憂鬱』や『消失』に比べて難産であったことが伺えます。

注12 『ザ・スニーカー』二〇〇四年一二月号、十一頁
注13 同上


□アニメ版による『溜息』の印象

 先生が最後に補足している通り、作り手が苦労したかどうかと作品の良し悪しは本来無関係ですから、上記の作者自身のコメントを以って『憂鬱』や『消失』と『溜息』との間に質や人気の面で線を引くことは諫められなければなりません。
 ですが、識者、読者、作者に続いて最後に個人的な所感を述べますと、『溜息』というエピソードのシリーズ内での完成度と人気は、やはりあまり高いものではないと私は思います。

 作品の詳しい内容については本書本文に譲りますが、非常に高い完成度を誇る『憂鬱』やキョンの行きて帰りし物語としても長門の悲恋としても十二分に楽しめる『消失』に比べ、『溜息』はコンセプトが分かりづらく掴みにくい作品だと思います。また、その作品コンセプトを理解したとしても、面白いと感じるかどうかは結構人を選ぶ種類の物語です。作品単体としての人気の低さ、注目されなさも、そういった内容の難しさと掴みにくさが反映されているのだと考えれば妥当であるように思われます。

 また『溜息』の評価を考える上では、アニメ版(注14)の存在も無視できません。
 アニメ版『溜息』ではSOS団団員同士のギスギスした関係が非常に印象強く描かれています。先の「キャラクターの心理的なもので、半年経ってるわりにはコイツらは、ってのがありましたから。」という原作者による『溜息』評はこの部分を指しているものと思われますが、アニメ版ではこの団員間の不和が非常に印象に残るよう演出されています。その結果、アニメ版『溜息』に「なんかハルヒがみくるちゃんをイジメ抜いてキョンがキレて殴ろうとする話」「みくるちゃんと古泉がなんかギスギスしてた暗い話」といった印象を持った方も多いのではないでしょうか。
 また、その直前まで放送されていたのが本シリーズのみならずアニメ界全体においても未だに語り草となっている問題作『エンドレスエイト』であり、そこで脱落したためそもそも『溜息』を見ていない、もしくは伝聞からなんとなく悪い印象しか持っていないという方も割といるものと思われます。恥ずかしながら私自身も二〇〇九年当時は『エンドレスエイト』の三回目か四回目かで脱落しその後は流し見に切り替えてしまっていたため、『溜息』をしっかり鑑賞したのは後年になってからでした。つまり上記の感想はそのまんま当時の私の感想です。

注14 正確にはTVアニメ版『涼宮ハルヒの憂鬱』(二〇〇九年版)第二十話『溜息Ⅰ』から第二十四話『同Ⅴ』の全五話。

 アニメ版(特に06年放送版)は当時としては群を抜いた原作再現度で好評を博した作品であり、また原作者自身も制作に参加している(注15)こともあって、原作『溜息』の内容と評価をアニメ版『溜息』のそれと同一視している方も少なくはないと思われます。

注15 『溜息Ⅰ』脚本を担当。

 では、以上の諸要素から『溜息』は「ギスギスした雰囲気の不人気作」と結論してしまっていいのでしょうか。今回本書を刊行するにあたって私は全シリーズを再読した上で『溜息』を改めて精読しましたが、上記のような結論を下すには惜しい、独自の価値を持った一作であると感じられました。そしてその意義は本書刊行時現在の最新刊である『直観』が出た今だからこそ高まっているようにも思われます。

 一方で、先述の通り他のシリーズ作品に比べてコンセプトが分かりづらい作品であることもまた事実だと思います。ですので本書では主に①『溜息』の物語としての特性 ②アニメ版との違いという二つの点に留意し、本作そのものの読解と本作がシリーズの中でどういった意味を持っているのかについて論じます。


□本書での考察レギュレーション

 ここでは本書で『溜息』考察をする上での決まり事を明らかにしておきます。少し長いですが、考察の前提になりますのでぜひ読んでおいてください。

①読解の仕方について
 本書では、原則的に作中の記述には何らかの物語構成上の意味や効果があるという前提で考察を行います。つまり「作者がなんとなく書いただけだろう」「他の箇所と矛盾するからこれは無視しよう」という読み過ごしはなるべくしないようにします(注16)。
 何故なら、本当に無意味な記述であれば作者と編集者によって刊行前に作品内から排除されている筈だからです。また、仮に本当に作者が意図を込めていなかった記述だったとしても、そういった意味を帯びる表現で世に出ている以上、その記述は作品全体の意味やメッセージを構成する要素の一つとして機能していると考えるべきだと私は考えます(注17)。
 また、これまで本シリーズを考察した結果、実際無意味に思えるような記述にも作品テーマに関わる重要な意味が含まれていたことが多かったことも、本シリーズを論理的に読むべきだと考える理由です(注18)。詳細については拙著『北高生ロストドキュメント‐SOS団考察読本‐』『精読・涼宮ハルヒの憂鬱』などをご参照ください。

注16 明らかに誤植と思われる記述などはこの限りではない。
注17 逆を言えば雑誌から文庫、文庫から他メディアに転載した際の修正は作者が作品の本来の意図に近づけるために行っている筈なのでその比較は意義が大きい。『溜息』のスニーカー文庫版と角川文庫版の比較検証結果はむーらん氏が公開しており興味深いが、誤字の修正や算数字から漢数字への変換が主のようであり、本書の考察では論外とする(https://note.com/camomiiiile/n/n2a1c3b16f51c)。
注18 なお、作者がミステリやSFなど論理性を前提とした物語を愛好していることも証左の一つだが、これは次の項に挙げる通り作品外の要素なので参考程度に留める。

②考察対象について
 本書では『溜息』の本文を考察対象とします。作者の生い立ちやバックグラウンド、同ジャンルの他の作品や現実社会との関連性など、通常の文学研究であれば参照される作品外の事象は本書では基本的には考察対象に含みません。また、漫画版やゲーム版など、同シリーズ内のメディア展開した作品についても対象としません。

 例外的にアニメ版は前述の通り原作の印象に影響を与えている可能性があるため、一部考察対象に含みます。ただし、あくまで原作の考察を主軸とし、アニメ版に触れるのは補足程度に留めます。

 また、本書では『憂鬱』などシリーズ内の他の巻も一部考察対象に含みます。『精読・憂鬱』では『憂鬱』以外の巻は全て考察対象外としましたが、それは同書がスニーカー大賞応募用作品として書かれた元々独立した作品だったからです。『溜息』以降の作品は元よりシリーズ作品として執筆されているため、その考察においても他の巻の内容も考慮して論じるべきだと判断しました。

 ただし、本書で取り扱うのは主に『憂鬱』から『暴走』の一部まで、作中の時期としては高一の十二月頃まで、つまり『消失』くらいまでとします。何故なら、登場人物の性格や彼らが置かれた状況は物語の進行に伴って変化するので、シリーズ全体の内容に照らして『溜息』を考察してしまうと作品単体での物語理解からは遠のいてしまうと考えられるからです。特に『消失』以降は多くの登場人物が内面的変化を遂げているので、その後の考察は『精読・消失』以降で論じることとし、本書ではその直前までに区切って論じます。

③登場人物の発言内容の真偽について
 本書では主人公含む登場人物の発言内容は、作中で明らかな指摘がない限り基本的に真として扱います。
 本作はキョンの一人称で語られるという形式であるため、仮にキョンが故意に事実を隠したり捻じ曲げて説明していたとすると、読者は作品内のことを何も真に受けることができなくなってしまいます。たとえば、究極的には「全ての登場人物やシチュエーションがキョンによる嘘であり、本当は作中で描写されている事物は一切存在しないのかもしれない」という仮説は一応成り立ちますが、そんな解釈をしてしまっては物語の論理的な読解は不可能です。
 同様に、古泉くんや長門やみくるちゃんなどの登場人物の発言も、彼らが嘘をつく妥当な理由があると思われる状況でない限り、基本的には真実を口にしているとして考察します。ただし「会話による意思疎通は正確なものではないかもしれない」ということは本作で提示される重要なテーマの一つであるため、基本的に発言は真実だと仮定しつつも、嘘や間違いかもしれないという視点は保持します(これはキョンに関しても同様です)。

 なお、真偽の判別の線引きは、そう考える根拠は可能な限り示すにしても、根本的には私の主観に拠るものになります。その点はご了承ください。

④どこまでを「本書の内容」と捉えるかについて
 本書では『溜息』の本文の内容だけを対象として考察する旨は先述した通りです。が、本文と一口に言っても作品の中には様々な内容が含まれています。また本作の場合、語り手であるキョンが真実を語っているとは限らないことや登場人物の発言内容が正とは限らないという設定などから、各内容がどの程度信用に足る情報なのかもまちまちです。そのため、本書では作品の内容の種類に応じて妥当性の認識を別個に捉えています。
 作品の内容の種類とは、ざっと以下のようなAからFの六項目に分けることができます。

A:作中の事実
 作中で起きたこととして記述されている出来事(たとえば『憂鬱』冒頭でハルヒが素っ頓狂な自己紹介をしたことなど)は、作品を構成する要素の中でも最も確度の高い情報だと考えられます。前述の通り、本作では語り手であるキョンが嘘をつくことも想定されるので、「実際には涼宮ハルヒなどという女は最初から存在しないのかもしれない」等、事実と思しき記述も疑おうと思えばいくらでも疑う事が可能です。が、そんなことをしても現状作品の価値を損なうだけですのでそういった仮説は立てないこととします(注19)。

注19 では作品の価値とは何か? という問いが生じるが、これこそ筆者による主観的な線引きにならざるを得ないので、その点はご了承いただきたい。一方、作品の価値を高める疑いであれば歓迎するのでぜひ巻末の連絡先よりご指摘いただきたい。なお、今後のシリーズ展開によってこれまで事実と見做していた事象の妥当性が変化することはあり得る。

B:作中の事実から高い妥当性で想定できること
 作中に「今日は月曜日だ」という記述があった場合、その翌日は記述が無くても火曜日の筈です。このように一般常識から導き出される情報も、先の挙げた作中の事実同様確度の高い情報だと考えられます。
 ここでも「ハルヒシリーズの世界では月曜日の次はうさぎ曜日かもしれない」といった妥当性の低い考察はしないこととします。

C:主人公や登場人物の発言
 登場人物の発言としてカギ括弧内に記述されている文章は、その内容が真か偽かに関わらず発言があったこと自体は作中の事実だと考えます(注20)。主人公の幻聴や作り話だという可能性は基本的には考慮しません。
 発言の内容についても、前述の通り嘘や間違いを言っていると明示されている箇所を除いて基本的には真実を口にしていると判断します。ただし、嘘や勘違いであると考え得る妥当性がある箇所については一考します。

注20 ただし語り部である主人公に関しては地の文の記述が作中の発言なのか思索したことなのか読者へ向けた言葉なのか不明瞭な場合が多い。これについては他の登場人物の反応などを鑑みて発生があったと捉えるべきかをを都度判断する。

D:主人公が考えたこと
 主に地の文に記述される主人公が考えたことは、単に彼の主観によるものですので、その内容が作中の事実であるかどうかは考慮する必要があります。『猫どこ』でキョンの思い込みによりヒーターの傍にシャミセンがいると読者に事実かのように伝えてしまった件(注21)はまさにこれに該当します。
 ただし、彼が考えたということ自体は事実として扱います。また、主人公以外の人物が考えたことは彼らの発言でしか描写されませんので、まずは思考ではなく発言として解釈します。

注21 「俺の目の前にはリュックに手をかけた古泉がいて、すぐ横にヒーターがある。ついでに満ち足りた様子で眠るシャミセンの背中が座布団の上にある。」(『動揺』、二百六頁)

E:メタ物語的文章効果
 一人称形式の小説は主に登場人物が体験した出来事の描写によって成り立っていますが、実はそれだけでは説明できないメタ的な意味や効果も内包しています。文学研究などの分野では定義や概念があるのかもしれませんが、残念ながら私にその知識が無いため、仮にメタ物語的文章効果と呼称することにします。
 これについては説明が少し難しいので、以下『憂鬱』のエピローグで閉鎖空間から帰還したキョンが部室で長門と顛末について話すシーンを例に説明します。

 長門に見つめられ「(キョンが襲われるようなことは)あたしがさせない」(注22)と言われたキョンは、最後に地の文で「図書館の話はしないことにした。」(注23)と述べています。『憂鬱』を作中で起こった出来事にのみ照らして読んだ場合、何故ここでキョンが急にこのようなことを思った(もしくは読者に語った)のか、理由を推し量るのはおそらく困難でしょう。
 強いて言えば、閉鎖空間内でパソコンを介して長門が送った「わたしという個体もあなたには戻ってきて欲しいと感じている。」「また図書館に」(注24)という好意と取れるメッセージの返事として、キョンがそれを拒否したのだと考えられます。ですが、キョンは他人どころか自分の好意にも無自覚な少年として描写されており、彼が長門の好意に気付いてそれを固辞たと解釈するのはやや無理があります。となると、この一文はキョンによる全く理由の無いなんとなくな発言ということになりますが、前述の通り本書の考察では「なんとなく」は禁じ手です(注25)。

注22 『憂鬱』、二百九十五頁、カッコ内は筆者による。
注23 同上
注24 『憂鬱』、二百七十八頁。ちなみに、長門はパソコンを介したメッセージでは基本的に句読点を用いている。そのため「また図書館に」のメッセージには、本来「一緒に行きたい。」「連れて行って欲しい。」などの続きがあったが送信できなかったのであろうことが推察される。続く文章が急に半角英字になっているのもその証左で、おそらく現実世界と閉鎖空間の連続性が途絶えることにより送信できる情報量が減り、『眠れる森の美女』というヒントを全角で打てなくなったための代替案だったのだろう。
注25 本書の考察レギュレーションに適さないだけで、各読者が「何となく思っただけだろう」と解釈するのは勿論自由である。

 キョンという人物の性格に照らすと理解し難い一方、この一文は結果的にはやはり「キョンはハルヒを選び長門の好意は固辞した」という印象を与えます。『憂鬱』は元々大賞応募用の独立した物語ですから、結末でキョンが三人のヒロインの中からハルヒを選んだということを暗示する必要から挿入されたと考えると妥当です。同じくみくるちゃんとの関係についても、キョンとのじゃれあいをハルヒがエピローグでは気にしなくなっていることで関係性の決着が示唆されています。
 逆に、ここでキョンが長門に「今度一緒にまた図書館に行こうぜ」などと言ってしまうと、キョンは最後の最後で周りの女性を誰彼構わず惑わす人物という印象になってしまい、ハルヒとの出会いに始まりデートで終わる『憂鬱』の物語を損ないます。

 このように、登場人物がその時何故そのように考えたり発言したりしたのかは作中から意図が読み取れない、または意味が薄いが、物語を外から見る読者に対しては効果を持つ表現が『溜息』を含むハルヒシリーズには散見されます。
 メタ物語的文章効果がどのような印象を与えるかは、読者の主観や読解力に大きく左右されます。また、作中の事実や登場人物の発言などに比べると確度が低く、物語の内容とは異なる印象を読者に与えることもあるため、物語の考察に適用するべきではないかもしれません。しかし小説という表現の中に描かれていることであることは間違いないので、本書では考察の対象に含めます。

F:表紙や挿絵や口絵、あとがき、解説
 表紙絵や挿絵や口絵などのイラストなどの情報は本書での考察では参考程度に留めます。角川スニーカー文庫版と同タイトルで刊行されている角川文庫版ではイラストが廃されており、作品にとって不可欠とまでは言えないと考えられるためです。そのため「本文には書いていないが絵だとこうなっているからこう解釈できる」という種の考察はしません。同様に、あとがきや解説などに書かれている内容も参考に留めます。

 以上の内容をまとめると【図一】のようになります。これが本書における考察のレギュレーションになりますのでご承知ください。

【図一】作品内外の諸要素と本書の考察範囲

図1

 それでは、次の章からいよいよ物語の考察に移ります!

 試し読みはここまで。
 続きは2021/05/16発行予定の非公式考察同人誌『精読・涼宮ハルヒの溜息 ~非公式考察本シリーズ vol.2~』でお楽しみください!
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