太陽と月 - 獅子座と蟹座の星(2/2)

この稿は前回「太陽と月 - 獅子座と蟹座の星(1/2)」の続きです。が、前回のは前置きみたいなものなので、特に読まなくても大丈夫です。あれは、なんというか、書かずにいられなかっただけなので(なんなんだ)。

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前回もご紹介しました、キーワードからいきたいと思います。

まず、獅子座の支配星・太陽のキーワードはこんな具合です。

意識、権威、王権、主観、心、知、かたち、動き、魂、火、全てを見通すもの、髪に関すること、意志、判定、自意識、アイデンティティ、行動、他者へのリーダーシップ、父なるもの、夫、主人、友情、著名なもの、支配者、頭、右目、心臓、黄金、麦、大麦、昼、レモンイエロー、苦み、etc.,

次に、蟹座の支配星である月は、こんな具合になります。

肉体、身体、感情、クセ、幼少時の体験、容姿、女性性、女神、同居、婚姻、懐胎、保護、合法的な結婚、ナース、兄弟姉妹、母なるもの、妻、家事、女主人、所有財産、市街地、人の住む場所、人を集めること、入手、利益、支出、家、船、左目、胃、胸、呼吸、脾臓、髄、銀、ガラス、夜、ライトグリーン、塩味、etc.,

夫と妻、父と母、金と銀、右目と左目、昼と夜。太陽と月は、私たちが幼い頃から慣れ親しんだ「ペア」、つがいのイメージを持っています。水星から土星までの記事では、対岸の星座同士の対照性を解説してきましたが、獅子座・蟹座の場合、対岸の水瓶座・山羊座との対照性の他に、隣り合わせの支配星の対照性も存在するのです。

月の星座・蟹座、太陽の星座・獅子座。

蟹座と獅子座。
この夏の二星座は、隣り合っています。
日本では蟹座は梅雨時の生まれ、獅子座は真夏の生まれになるので、「夏生まれの星座」というと獅子座のほうがより印象が強いかもしれませんが、「光」の量でいけば、蟹座の方が実は、光が強いのです。というのも、太陽が蟹座に入る日こそが、一年でもっとも日が長い「夏至」だからです。

蟹座と獅子座は夏の星座であり、光の星座なので、その支配星として、地球から見た全天でもっとも明るい月と太陽が割り当てられた、という話を前回、書きました。

では、この「光の二星座」は、どんな世界なのでしょうか。

蟹座という「甲羅」のしくみ。

蟹座を表すキーワードとして、「家族」「母性」がよく出てきます。実は私自身、太陽星座は蟹座で、いわゆる「蟹座生まれ」なのですが、この「母性的」というキーワードには幼い頃から反発を覚えてきました。大人になって星占いの世界に足を踏み入れて初めて、「ああ、そういうことか」と分かりました。というのも、蟹座は「人間の集団」と関係が深い星座なのです。

この稿では星座の「ポラリティ」、つまり対極にある星座との対照性を通して、しばしば星座の解説をしてきました。蟹座の対岸は山羊座です。
土星-山羊座の稿を見て頂くとおわかりのとおり、山羊座もまた「人間集団」を扱います。山羊座の「集団」は、厳しい冬という不毛の時間を、人間が集団を作って何とか乗り越えようとする、その仕組みを司ります。
では、その対岸にある蟹座はどうかというと、「人と人とが結びつく」ということそのものを扱うのが蟹座なのです。山羊座は合理性と責任感で集団を維持します。蟹座は共感と情愛、保護という力で集団を形成するのです。

私たちが生まれてから最初に認識する人間集団は、多くの場合、家庭です。生活力という点ではまだまだ無力な子どもの間は、周囲の大人に守り育ててもらうしかありません。場合によっては、ごく幼い頃から大人の庇護を受けられず、剥き身で世の中に放り出されてしまう子どももいます。ですがそれは、「望ましいこと」ではなく、本人も望むところではないはずです。あくまで無償の愛情によって保護され、育まれることを、子どもは必要としているはずです。

蟹座的な庇護には、経済合理性や損得勘定のようなものは、ほとんど含まれません。母校でも何でもないけれども甲子園を見ればとりあえず、地元の学校を応援する、というその感情は蟹座的なものと言えます。スポーツに関心のない人でも、国際的なサッカーの試合などを見て興奮しながら自国チームを応援することがあります。これもまた、蟹座的な思いです。母性というよりは「所属性」「同一性」を蟹座は担っているのです。
「内側」と「外側」、「慣れたもの」と「慣れないもの」、「知っている人」と「見知らぬ人」。蟹座の人々はこれらを厳密に分けます。家の内外を厳しく分けて家の中を心地良く守るように、蟹座の人々はまず、「外側にあるもの」を警戒するのです。
ひとたび言葉を交わし、心を寄せた物に対しては、ぱっと心を開いて、まるで最初から身内だったかのような態度を見せるようになります。固い甲羅の中に他者を「容れるかどうか」を絶えず見つめているのが、蟹座の心です。そして、一度中に入れてしまえば、その対象はずっと、甲羅の中の住人となるのです。
ゆえに、たとえ血の繋がった親子であっても、「自分とは馴染まない」と感じてしまえば、蟹座の心は簡単に相手を甲羅の外に出してしまいます。「家庭的」「母性的」と言われる蟹座の人々ですが、この「家庭」「母性」は、現実のものを指すのではなく、たとえ外から見れば「家族」であったとしても、蟹座の人が自分の心の中でその人を本当に「身内」だと思っているかどうかは、全く別の問題なのです。

こう書くと、何か蟹座の人々が非常に排他的なように思われるかもしれません。でも、そうとも言い切れない条件が2つあります。一つは、客観的に見てごく異質なものや排除されがちなものであっても、蟹座の人が自分の個人的感覚で「受け入れられる」と判断したものは、きっちり身内として受け入れてしまえることです。特に成熟した蟹座の人々は、世間的な差別や境界線をほとんど意識せず、自分の感情だけで「容れるか、容れないか」を決めることができます。確かに蟹座の人々は最初は「知らないものは敬遠」するのですが、「知ってしまった」あとは、「他者」は存在しなくなるのです。

もう一つの条件は「脱皮」による甲羅の拡大です。蟹座の人々は最初は小さな甲羅の中に自分の心をぎゅっと護っていますが、経験によって脱皮を繰り返し、より大きなものを甲羅の中に入れられるようになります。ごく成熟した蟹座の人は、おそらく世界全体をその甲羅の中に入れてしまうこともできるかもしれません。外界と内界を分ける甲羅が無限に大きくなったなら、そこにはもう「外界」が存在しなくなるのです。

蟹座の支配星である月は、やわらかく変化に富んだ感情を象徴します。蟹座の「中か、外か」の区別は、この月の機能だけで行われます。感情は変化しますが、月の変化が常に「見た目だけ」であるように、その感情の奥底にあるものは、どっしりと変化しません。蟹座の人々は表情豊かで、不安定なように見られることもありますが、長期的に見ればちっともそんなことはなく、一貫性のある深い感情をずっと抱いていて、「身内」たちはいつでもその場所に帰ってくることができるのです。

ヘラクレスと獅子の皮。

一方、獅子座はどんな世界でしょうか。

太陽の星座である獅子座、その対岸には水瓶座が位置しています。両者に通じるのは、これが「個人の星座」である、ということです。もとい、水瓶座の世界は「集団の世界」だと土星の稿で書きました。ですがこの、水瓶座の「集団」は、山羊座の「組織」が解体してできあがったような世界であり、個人が集団の歯車となることなく、あくまで自由な個としての独立を確保して生きられる世界、というイメージになります。山羊座という組織集団的世界から脱出した人の集まりが、水瓶座だったわけです。

その対岸にある獅子座もまた「個人」の世界です。上記の、蟹座という「閉じた集団世界」から一人の人間としてこの世に立つのが、獅子座の仕組みなのです。獅子座の神話は「ヘラクレスと獅子退治」です。ヘラクレスは継母にあたるヘラの怒りを買い、12の難業を課せられますが、その中の一つに「化け獅子退治」がありました。誰も歯が立たないオバケのような獅子を見事倒したヘラクレスは、固い獅子の皮をはいで、自分の鎧とします。この「獅子の皮の鎧」が獅子座だというのです。夫であるゼウスの浮気の産物・ヘラクレスを、ヘラは憎み抜き、さんざん苦しめます。追いかけ回す、と言ってもいいくらいです。ヘラクレスの名前の中に「ヘラ」が入っているのは意味深長です。継母とはいえ「母なるもの」に追いかけられ、対決を強いられるヘラクレスの姿は、「蟹座という庇護集団」から抜けだし、それと対決し続ける姿、というふうにも感じられるのです。

獅子座は「王者の星座」であるとされます。王様は集団に属してはいますが、集団の構成員とは全く別の、一人だけ独立した存在です。集団に所属しながら集団に溶け込んではいない、突出した存在なのです。
獅子座は主観の星座であり、個人の肯定の星座であり、自己表現の星座でもあります。そこには「正解」はありません。獅子座の正義は多数決で決められるようなものではないのです。蟹座のような、集団性から飛び出したところに獅子座の生き方があります。「自分は自分」ということが、獅子座の世界のベースにあるリクツです。
これは「他人と自分は違う」というような相対的な問題ではありません。閉じた集団という、いわゆる「コンテクスト」の外側に出てしまえば、そこにはもう客観的な善悪も、相対的な善悪もありません。「自分」があるだけなのです。自分の創造性、自分の美意識、自分の強さ。ヘラクレスがたった一人で12の難業に取り組んだ姿にも、そのことが表れているように思われます。

獅子座は「愛の星座」でもあります。この「愛」は、個人としての愛です。恋愛はその最たるものです。また、親が子に注ぐ愛も当てはまります。
蟹座もある意味「愛の星座」ですが、それは言わば「所与の愛」です。私たちは赤ん坊として生まれおち、身の回りにあるものに愛着を持ち、「目の前にあるもの」と情愛の絆を結んでゆきます。そこには、ほとんど選択の余地がありません。好きになるか嫌いになるかはある程度選べますが、「子が親を選べない」ことが象徴するように、幼い私たちはまず、与えられた環境に愛着を持つしかないのです。

一方、蟹座的な集団性から離脱して「個としての主観」によって立つ獅子座の世界では、愛はこの広い世界の中で、自ら探しだし、選び出すものです。初恋は、私たちが抱く最初の「自ら選んだ愛」といえないでしょうか。家庭を出て、外界に触れて、そこでたった一人の人間として出会ったものに抱く特別な感情が、獅子座的な愛に通じます。

これはもちろん、蟹座の人が自分で愛する人を選べない、ということではありません。ただ、蟹座の人々は、「知っている人」に対してはできるだけ良いところを探そうとします。こちら側から愛情を注げるよう、努力するところがあるのです。
一方、獅子座の人の愛の形成は、「愛への歩み寄り」ではなく、一目惚れのような、ある種の陶酔のような、あるいは、王様が配偶者を選ぶような、一種独特の緊張感と距離感に包まれているところがあるかもしれません。

どんなに強くとも、ヘラクレスは生身の人間です。「獅子の皮」は英雄の鎧で、言わば「外観」です。弱い部分を覆い隠し、守るのが鎧です。戦士は自分を強そうに見せるよう努力します。決して弱みは見せません。獅子の皮は、ヘラクレスという英雄の弱点を隠しているのです。
獅子座の構造もそれに似ています。獅子座の人々の「自己表現」は、非常に「強そう」です。悩みを吐露するようなときでさえ、「これは自分で解決できるし、もう半ば解決してしまっている」というような言い方をします。ゆえに、本当に悩んでいるとは見えないことがあります。繊細な部分を鎧に隠し、人に見せないようにしてしまうのです。

獅子座が太陽の星座である、ということも、このことに重なります。というのも、私たちは太陽を直視することはできません、明るくて、眩しすぎて、太陽の本体を見つめることができないのです。獅子座の人々が発する自己表現や自己主張の「強さ」は、まるで太陽の光のように、本体である生身の人間像を「見せない」のです。

蟹座という心情で守られた集団から一人離脱した獅子座は、ティーンエイジャーのような状態です。根拠のない自信を持って家から飛び出し、熱い憧れを実現しようとし、人に恋をします。でも、その本体はまだやわらかく、感受性が強く、繊細なのです。ただ、それを見せてしまえばこの世の中で自分を守る事が難しくなります。ゆえに、獅子の皮の鎧をかぶっておくことになります。

成熟した獅子座の人々は、この獅子の皮を徐々にやわらかくし、度々はそれを脱ぐことができるようになります。獅子の皮と内面とが一体化し、まるで履き慣れた靴のように、内面の柔らかさと皮の強さが融合するのです。獅子の皮は内面と外面を分離させる境界としてでなく、内面を守りつつそのまま流し出す衣装やゲートウェイのような働きをします。外界を撥ねのける強さではなく、外界を愛する強さに変わってゆくのです。

2つのアイデンティティ

蟹座と獅子座には「甲羅」「獅子の皮」という共通点があります。外界から自らを守る固い壁を持っているのです。
この「壁」は、月と太陽という強力な光に通じるものがあります。というのも、強い光は、直視できないのです。また、固いもの同士がぶつかったとき、火花が散ります。光が跳ね返されたり、まぶしさで視界を奪ったりするような「拒否」の仕組みが両者にはあるのです。
この「拒否」は、個が個であるために必要な、ごくプリミティブな「境界線」です。自分が自分だということを発見するために、どうしても必要な壁なのです。

私たちは、様々な「自己」を生きています。集団の中でどのように自分が生きているか、ということは重要な要素です。私たちは集団のなかで排除されると、深く傷つき、死を選ぶことさえあります。ある集団の中にあって受け入れられ、場を得ている、ということは、私たちが「自分自身である」ことの条件の一つなのです。皆で何かをするときの熱狂、集団が一つになった時の興奮は、危険なほどの力を持っています。声を合わせて応援したり、皆で一つのものを創り上げたりするとき、独特の陶酔感がその集団を包みます。自分一人では決して経験できないことを、私たちは集団の中で経験するのです。

一方「他人とごっちゃにされたくない」というような思いも私たちは強く抱いています。「あなたに何が分かる!」というような怒りは、自分が自分という独立した存在だから生まれるものだろうと思います。どんな集団の中にあっても、私たちはまわりとは違っています。「皆そうしている」場合でも「自分はそうしたくない」と思う自由があります。人とは違うことをしたい、目立ちたい、と思う人もいます。人に負けたくないという気持ち、「自分とは何なのだろう」と考えるような気持ち。自分だけの才能や特殊性を探し出したい気持ち。私たちは集団にあっても、決して集団の中に埋没し溶け込んでしまいたい、というわけでもないのだろうと思います。

「集団の自分」と「一人の自分」。どちらも「自分」であり、アイデンティティだとも言えます。私たちは自分のルーツに強い関心を持つ一方で、自分がどのように人より優れているかを知りたがります。「集団の自分」は蟹座的なアイデンティティ、「一人の自分」は獅子座的なアイデンティティと言えるかもしれません。人に必要とされる自分、人を愛する自分。光と影の両方が、いつも私たちの中に存在しています。

「光」と、「生命」と。

人間の生命は、光に擬えられます。人の死を表現するのに「目から光が失われる」という描写がよく用いられます。「命の灯が消える」という言い方もそのとおりです。
夜空の星をうつくしいと思う気持ちは、闇夜に遠く光る家の窓の明かりを見つけたときの安堵感に似たものがあるのではないでしょうか。星の光はまるで、生きているように感じられます。少なくとも、きらめく星が、ただゴツゴツした石の塊だとは思えません。そこに何かが生きて住んでいる、それだけで私たちは、闇夜を歩く勇気を得るのです。目指す場所を見出し、希望を持つことができます。
私たちは「光」を、生命力の象徴と感じています。夏が「命に溢れる季節」であるのは、太陽光に溢れているからです。妖精や魔女達がお祭り騒ぎをするのも、光溢れる満月の夜だと考えられています。
蟹座と獅子座は「光の星座」であり、いのちそのものを宿すような世界です。蟹座が「家」、獅子座が「心臓」の星座であることが、そのことをよく現しています。

「生命力」というキーワードが用いられる星座は他に2つ、牡羊座と蠍座があります。牡羊座は火の星座、蠍座は水の星座で、火星に守られています。こちらも、火のイメージの世界です。光と熱はセットのもので、私たちはきらきら光るものを見ると「多分熱いだろう」と感じます。
牡羊座と蠍座は死と隣接しているがゆえの、燃えるような「生命」を象徴します。たとえば戦場で生死の境をさまよったときに知る生命の価値、事故や病気にあった時初めて探究し始める生命の意味が、牡羊座的・蠍座的「生命力」です。生きるために戦う力、再生する力、生き抜こうとする力です。

一方の蟹座と獅子座の「生命力」は、喩えるなら、馬小屋の聖母子のような世界です。そこには光が溢れていて、希望に満ちています。
実は、蟹座は「死」とも関係の深い星座です。全ての命が最終的に帰っていく「地中」を司る星座だからです。でも、私たちは不思議と、生命が帰っていく場所と、生命が来たり来る場所を「同じ場所だ」と認識しています。あの世から来て、あの世に帰っていく、といったイメージがあります。また、「海」もそうです。聖母マリアは海と結びつけられることがありますが、全ての生き物がそこから生まれ、全ての命がそこへ還っていく、という海のイメージは、蟹座の世界観に繋がるものがあります。生命を揺籃する場所、生命が夏の緑のように繁茂する場所。夏の命のきらめきが、蟹座と獅子座の「生命」のイメージなのです。

以上、月と太陽、蟹座と獅子座でした。

次回以降は「トランスサタニアン」、即ち天王星・海王星・冥王星を取り上げたいと思います。この3星はそれぞれ、水瓶座、魚座、蠍座に割り当てられています。なので、その三星座のお話になるはずです。

乞うご期待!