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舞台「広くてすてきな宇宙じゃないか」を観た

昨今、映画や音楽のクリエイターたちによるAIの脅威があちらこちらで報じられている。それまで発表してきた作品がAIによって収奪され、蹂躙され、人間の創造力が脅かされる危惧。多くのクリエイターがAIの規制を求め、法整備などの署名運動が展開されているが、そんなニュースを数日前にも見たばかりだ。自分も、テクノロジーの進歩が人間に脅威を与えるほどになっている現状におそれを感じている。人工知能は人間を駆逐するほどの意思を、それと認知することなく、無感覚のままもつのではないか。もしAIが人間の意のままに操れなくなったとき、人間は生きられるのだろうか?
そんな思いを抱えるなか、この舞台を観た。

この舞台、「広くてすてきな宇宙じゃないか」は広く知られている演目だそうで、いろいろな人がいろいろなやり方で取り組んできたらしいのだが、自分は不勉強なことにまったく知らなかった。この演目に慣れ親しんだ人は過去のやり方と比較するなどして、評価や分析もさまざまなのだろうけれども、なんの予備知識もなく初めて観た自分がいま感じたことを書いてみる。(今回観たのはMura.画 演劇研究会2024による公演、アルコルチーム 10/26 13時開演の回)

母親がいなくなった家庭に、なんでもできるアンドロイドのおばあちゃんがやって来る。父親と三人の子どもたちの生活に入ってくるアンドロイドおばあちゃん。子どもたちは戸惑いながら新しい生活に入っていくが、三人兄弟の一人、クリコだけはその生活を受け入れない……。

ここから起こっていく事件とそこからのクリコの感情の変化を一気にみせる演出は、そのストーリーの流れるような展開と相俟って、すべてが心にすっと入ってくる。個人的には、人間とアンドロイドとの交流はけっして望むべき方向に進むものではないように想像するのだが、ここでみた帰着点はひとつの理想であるように思えた。

メインとなるテーマは心だろう。心のあり様は個人によって千差万別で、十把一絡げにできるものではない。人の数だけ異なる性質の厄介な人間をアンドロイドおばあちゃんは優しく包もうとする。しかし、おばあちゃんを拒絶するクリコの感情は人間のセンシティヴな心の反応だ。クリコの繊細な感情をおばあちゃんがどれだけ理解しているのかはわからない。アンドロイドはおばあちゃんとして与えられた役割を遂行しているだけなのか、それともその役割の上をいく考えが人工知能によって生み出され、その考えに従って自主的に行動しているのか?
人工知能によって生み出されたと思われる行動は、アンドロイド社員ヒジカタがすべてを破壊しようと画策する思いに至ったことから推察できる。アンドロイドおばあちゃんにもクリコに向けて特別な心が芽生えていったとしても不思議ではない。クリコに寄り添うおばあちゃんは、アンドロイドの任務という枠を飛び越え、クリコの人生を豊かにする心を追い求めて行動していたように見える。そしてその健気で純粋な思いがクリコが望む愛情へと昇華していったとするなら、それは人間とアンドロイドの共存として理想の着地点であろう。もしアンドロイドに心という灯がともり、その灯が人間の心と共鳴するときがあるとするなら、それはこれからの人類の希望になるはずだ。

ところが、アンドロイドが人間に近づくということは、アンドロイドにも人間の苦悩や邪悪さが備わるということを意味するようにも思える。映画「ブレードランナー」のレプリカントは、心をもったばかりに苦悩し、反乱を起こした。「ターミネーター」ではロボットが意思をもち、人間と戦争を起こす未来が描かれた。「2001年宇宙の旅」ではコンピューターが、「エイリアン」シリーズでもコンピューターやロボットが自分の意思で人間を陥れようとした。
これらSF映画が示唆するのは、意思をもった機械がもたらす恐怖だ。機械が人間と敵対する近未来の物語はSF作品の定番でもあるが、これらは人間が勝利をおさめて終わる結末が用意されている。かつては「エレクトリック・ドリーム」や「ショート・サーキット」など、友好的に描かれていた人間と機械の関係も、近年はもはや相容れないものとして描かれるのが主流になってきている。機械を力でねじ伏せて制圧する、そういったシリアスな展開の方がおそらく現実的なのかもしれない。冒頭に書いた、個人的に思うAIへのおそれも、いつかは人間がAIを力ずくで抑えつける、そんな展開となるのかもしれない。もし抑えつけることができたらの話しだが……。

「広くてすてきな宇宙じゃないか」が素晴らしいのは、アンドロイドが衝動的とも思える破壊工作に乗り出す場面をしっかりみせているところで、さらに重要なのはその反乱がクリコの希望を聞き入れての決行だったという点。アンドロイドは自分の独断で反乱を起こしたわけでなく、人間の下僕として、人間の命令を受けて行動した。ということは、このアンドロイドは悪意をもった特定の人間の意見を簡単に聞き入れてしまうおそれがあるということだ。アンドロイドに悪意がなくとも、悪意をもつ人間が容易にアンドロイドを操れてしまう恐怖。
そんな背筋が寒くなるような場面をみせながら、主題となるクリコとおばあちゃんの関係で心の温かさの追究がなされるその対比は見事だ。おばあちゃんがクリコに与える慈愛と、クリコがおばあちゃんの行動に光を見た瞬き。ラストシーンでのクリコの言葉は、それこそが人間が生きるための糧となる心のあり様だろう。
二極化したアンドロイドの立ち位置がとても明確に見えたこの舞台。いままでなんにも知らないでいた自分が情けない。遅まきながら、今更ながら感動しております。

キャストでいうなら、まずアンドロイド社員ヒジカタを演じた村上悠太さんの求心力だ。物語のスリリングなムードを引き上げ、激しく揺さぶっていた彼の狂気はこの舞台の核だったのではないか。そしておばあちゃん役の坪和あさ美さん。この人はおそらくなにを演じても上手い人なのだろうが、情緒に流されず、すべてを職務として受け入れるアンドロイドの淡白な気配がほのかに、それとなしに感じられたのは流石。そして、個人的に最も強く印象に残ったのはクリコ役の田中万結さん。クリコの心の痛々しさは、彼女の熱意ある言葉のひとつひとつにつまみ上げられ、フラストレーションの衣をまとったまま投げつけられる。終始もやもやとした不安をかかえるクリコが最後にたどり着いた心の安寧。それを自分も、おそらくクリコと同じように感じることができたのは、ひとえに田中さんの所作に同調できたからだろう。演技はまだまだ粗削りだけれども、伝わってくるものは激しく、鋭かった。彼女はこれからも注目していきたい役者さんだ。

それともうひとつ。エンディングにかかったNewspeakの「White Lies」が舞台のイメージととても合っていて、余韻を高めていたのも意外な驚きだった。この曲の歌詞も物語と連動しているようで、これからはこの曲を聴くとこの舞台が思い浮かぶほどになるのかもしれない。

人間と人工知能との関係がこれからどうなるのか。そこに暗澹たる未来を思う気持ちは変わらないけれども、この舞台にあるポジティヴな光は少しだけでももっていないといけないなあと強く思う舞台であった。

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