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我が子を看取る㉙ 退院までの過ごし方
※この我が子を看取るシリーズは、当時の日記やSNSを振り返って記載しています。
ただひたすら泣く
我が子を亡くしてからも、私はまだ入院が続いていた。
帝王切開出産で退院は産後一週間が必要だった。
夫がお見舞いに来てくれると一緒に泣いた。
ただひたすら泣いた。
それから祈りの部屋(赤ちゃんを保管しているお部屋)に会いに行き、棺の中の我が子を見てまた泣いた。
夫は病院を出れば外の顔で仕事や長女の世話がある。
失った悲しみを表現できるのはこの二人の時間だった。
夫もずっと耐えていた。
必要な手続きがある。出生届と死亡届。
我が子の名前は戸籍にも載った。
長女は毎日電話してくれて「愛子ちゃんどうだった?」と聞いてくれて、私の腫れ上がった目を見て笑ってくれた。
私の過ごし方
病院側はしっかり配慮してくれていて、他のママさんや妊婦さんとはほぼ接しないような場所に位置する個室に私は滞在していた。
看護師さんだけが定期的に健診や様子を見に来てくれた。
不思議なもので感覚が鋭敏だったのか、相手がどんな感情なのか空気だけで察知していたような気がする。
看護師さんでも、すごく気にかけてくれているのがわかる人と、事務的に仕事をされている人とか。
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私はなるべく感じたくなかった。
もう今となっては当時の記憶はほとんどない。
持って行ったノートにひたすらに事実と感情がごちゃまぜに記録してあるだけだ。
入院中はノートに記憶を書き落とすしかなかった。我が子とのことを全て留めておきたかったから。
泣きながら
書くしかなかった。
なかなか見ることができなかった写真もようやく見返すことができた。
そして泣いた。
無理を言って手術室にも持ち込んだデジカメ
動けない体だったから
看護師さんが残してくれた写真
それは私の宝物
ノートを開けば、当時のメニュー表も貼ってあった。
どんな味だったのかもわからず、食べたのか食べないのかわからなかった。
心のケアに長けたベテラン看護師さんは話しかけにきてくれる。
娘の棺に入れるようの折り紙を折るのも勧めてくれて、折り紙セットを持ってきてくれた。ただ私は元々細かい作業は苦手て、折り紙は一つも折れなかった。
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ただベッドに横になり、娘を想い、現実から逃避するように眠ってばかりいた。
きっと回診に来てくれる担当医はいつも寝てると思っていただろう苦笑
退院の日
夫が迎えに来てくれた
祈りの部屋に娘を迎えにいく
小さな箱に保冷剤を入れてお布団が入っていてそこに我が子を移す
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表玄関からは退院できず裏口から出るのが慣例なのだろう
それでもお世話になった産科と新生児科の先生や看護師さんがずっと付き添ってお見送りをしてくれた。
コウノドリの監修をされたであろう新生児科の先生はとても懐の深い先生だった
「お父さんもお母さんも頑張りましたね」
そう言って見送ってくださった。
こんな想いはもう二度としたくない。
そう思ってはいるけれど、これまでに受け取ったいろんな人の様々な優しさが蘇る。
「・・・ありがとうございました」
本当にその一言しか出てこなかった。
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娘の棺の中には保冷剤とドライアイスが入っている。
小さな棺にぬいぐるみと一緒におくるみに包まれている。
一緒に家に帰る。