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美を見る人々

迫れる人々

町をブランディングする、町や土地の価値を高める、選ばれる町、住みたい町となる、その町独自のものが重要、ご当地感が心を打つ、成長戦略は?等と言った言葉を、地域の活性化や地方創生に絡めてよく耳にします。あたかも、それは○○でなければならない的、強迫観念を伴い語られているように聞こえます。
○○すれば結果は出る?とも聞こえます。マスコミにしろ、企業にしろ、行政にしろ同様に聞こえてきます。

美を見る人々

一方、ある町に住み、働き、様々な文化活動をしている私達にとって、その町に落胆こそすれど、何かしらの私的物語を持ち、自己のアイデンティティーの形成に、町を積極的に意識する人々は、どれ程いるのでしょうか。 (河井寛次郎の章を参照)中には、○○に住んでいる(○○は、その都市の中でも、地価が高値安定の町)と言う事を、自己の経済軸や文化軸(その町、其の住民の人々の生活水準イメージ等)の優位性に見立てる消費階層論的な人々は多々いますが、(マンション等のチラシには露骨に表れていますが)文学、芸術等、町を文化論的に語る歴史の長さに比べ、町を学際的(建築、設計、土木、都市計画等の自然科学系、経済、思想、政策等の社会科学系に文化論を混じえた学の交流)に理解、想像する歴史は極々短く、70~80年代頃からに過ぎません。この事と先の「小さな開発、大きな開発」の章で述べた、大きな開発による町実態が重なり合い私達の町への不感が続いているのではないでしょうか。

但し、私達は消えてしまった山人の如く、移動遊動(旅行)を通じて、街の記憶(街並みや建築物、小さな看板やサイン)や営み(その町の人の生業や暮らし方等)更には、街の所作(街全体から漂う雰囲気や空気感等)に街の美を見ているではありませんか。町を自身が住む場(住宅)、働く場(仕事先)とするだけではなく、美を見る場とイメージすると、じわじわと自身の考える暮らしの豊かさが見えてくるかも、感じられるかもしれません。町に仕事で関わる人であれば、尚更なことなのかもしれません。強迫観念?はいらないのです。これは、移動遊動を選択した山人達が定住を選択した常民達に向けたメッセージを、その両者のキワ(際)にいる野人達(概念上の存在)が今の私達に向けたメッセージの様に聞こえます。

野人のメッセージ

身近な町こそ、旅をしよう、美が見えてくる。
美が見えてくる人の輪を広げよう、マストでは無いけれど。
その人(街)の人(街)となりは、総体的な美の小宇宙なのです。
この世界を祈るような感じが、暮らしの豊かさを見せてくれる、と言ったメッセージの様に聞こえます。
どうでしょうか。


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