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戦国時代山城跡―その見方について

私は週に二、三回のジョギングを欠かしたことはありませんでした。
仕事柄(毎日のように出張していた)、夜中の二時、三時になることが多かったのですが、体力維持のための止めることはありませんdした。
 何故かといえば中世戦国時代の山城跡を観るため、相当の体力と日に何度も登り降りができる足腰が必要だったからです。

 歴史文化財遺産の整備関連の仕事をしているとき、いくつかの山城跡を担当したことがあります。現状を把握するために、朝、おにぎりとペットボトルをもって行政の担当者と荒れ果てた城跡内部を連日、昇り降りしたことは当然です。史料もなく、その範囲(縄張り範囲)も明確でなく、地元の担当者でさえ把握していないのが普通であり、整備等計画策定のため目の前に見える城山山中は当然、周囲の谷や丘陵を歩き回るのは必要なことなのです。
 近世の城郭跡でも、明らかに見違えていることも沢山あり、中世戦国時代の山城跡に至っては猶更である。歴史上、最も戦場になり、多くの死人を出した城跡が現在、一見平和的に見える、語られることが大きな間違いなのです。

「山のホタル」


月山富田城跡の全景スケッチ

 山陰にある月山富田城跡は何回かの籠城戦に耐えた広大な山城である。
戦国大名尼子氏の居城であり、山之内鹿之助の尼子再興の戦いでも有名な城跡である。(最初の写真画像)
 現在、近辺の丘陵からひときわ高い頂を持つ城山は、そのほとんどが樹木に覆われ戦国時代の様相を全く失っている。
 私たちが誤解しているのは、中世戦国時代の山城はその斜面に樹木など余分なものは一本も生えていないことにある。その斜面には幾重にも重なった柵囲いされた屋敷が配置されたことである。例えれば、西洋の絵画に出てくる「バブルの塔」のように大手から幾段にも重なった屋敷構えがあったはずである。
 今では、全くその景観も語られることもない。
 例えば籠城戦では、攻める側の毛利軍も堀として使った河川の対岸に幾万もの兵を置き、護る尼子氏側も城内に一万近い兵力を常駐させたはずである。

 私は毎日のように川の対岸から城山の頂を観ていて、ㇷト気が付いたことがあった。川の対岸に陣取った毛利氏側の兵たちは毎日、何を見ていたのだろうかと。
 籠城y戦も一年、二年も経てば、城山にこもる尼子氏側の生活にかかわる朝夕の煮炊きや炊事も見ていたはずである。城山を覆いつくした屋敷からうかがえる日常の生活のにおいも、多くの屋敷から漏れる灯や炊事の点滅する灯も見ていたはずである。
 あたかも、山を覆いつくすような「山のホタル」の群れを毎日見ていたはずである。


人間のスケールと枯山水


八王子城のスケッチ

 東京都の八王子市に戦国時代末期の山城跡、八王子城の特異性は、ある一面築城してすぐに落城したことによる城主(築城者)の城構えの意図や意思を明瞭に窺うことができることにある。
 私が最初に八王子城跡に訪れたのは、市の発掘調査の担当者の誘いでその御主殿後に入る「石階段」を検出出ている時だった。その石階段のすごさに感動している私に担当者は「これを整備公開するのならどうしますか」と問い、私は即座に子の石階段を見せるため「昔の木橋(曳橋)を造って昔の導線を復元する!」と応えました。
 御主殿跡(屋敷)は城山の奥深く丘陵の中断に造られた館跡です。御主殿に入るためには対岸の丘陵から川(城山川)を渡り、その入り口の正面にその大規模な石段を昇る必要があったのです。私はその石段を正面から観るために、何より城主が意図した往時の導線の復活にとそのために大掛かりの木橋をかけることにその整備公開の主目的にしたのです。
 当時、野外に大きな木橋など国内に例もなく、対岸の丘陵も倒木だらけであり、木橋を支える橋台も自然石の石積だったのです。
 「無謀」と批判され、当時その前例もない木橋を野外に造ることに大手の専門メカ―は相手にもされず、石垣の復元も大手の建設会社に念書まで取られる始末だったのです。それでも諦めることなど一切なく、昔の人の作り手の意図を尊重し、何より公開後見に来てくれた人やその子供たちに手に触ってガッカリするようなもの(擬木やコンクリート)を使いたくなかったのが本音である。
 八王子城で私が担当した整備内容は、その広大なほんの一部のものだったが、今後に繋がるものと信じていたのです。

 もう一つ、八王子城跡の発掘調査の検出遺構で感動したことがあります。
それは、建物柱の焼け跡がくっきり遺る礎石のわきに枯山水の庭を見たときの驚きです。坪庭を少し大きめにした庭跡で、小さめの白い玉砂利を敷き詰めた中に幾石かの立石を建てたの趣向のものです。
 「何で?」と思うのは私だけでしょうか。普通に考えても、豊臣方が「後北条征伐』に大軍が押し寄せることは当時の状況から明らかだし、落城や討死は覚悟の上だったはずである。しかしこの城主は、迫りくる死を前にしても目にやさしい緑の立ち木や水面を望まず枯山水の庭を主殿の脇に造らせたのである。
 私はその城主の心理を少しでも理解したくて。枯山水の庭を観る座敷の位置で背伸びしたり、ぴょんぴょん跳ねて同じ視点でその一端を理解しようとしたが、全く解らなかったのは当然である。
 結局、人間のスケールが全く違うことに納得しただけだった。

あとがき

 まだまだ、書き残していることは沢山あり、生々しい当時の痕跡や築城のための入念な普請の跡の解説があり、間地かに観た多くの山城跡のことも記憶に残っています。
 何より、地域の歴史文化財の「整備公開」へ繋げた初動を担った若い行性の担当者個々とその並大抵でない苦労話を書くことが私の使命だとも思っている次第です。
 どこかで振り返って書き残したいと思っています。
 
 次の投稿は、近世城郭について考えています。

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