城跡について
「城」とは何かとの問いはよくありますが、古代から近世まで、日本国内には色々な城跡が存在します。
城を造ることは、敵から身を「衛ル」のか、国を「護る」のか、名を「守る」のかによって大きな違いがあるように思えます。「城構え」そのものに違いがあり、その景観も構造も異なってくるのです。
私と歴史文化財としての城跡の関係は、たまたまある地方都市の荒れ果てた城跡を整備公開のための基本計画書ー国、文化庁への事業認可のための事業説明書を最初に策定した経験があり、その後、全国の地方自治体が自前でコンサルに造らせた「基本計画書」が国の認可を得られなかったことで、私の処に多くの自治体からやり直しの計画策定依頼があり、城跡の整備に多く関与することになった経緯があります。80年代中ごろから90年代にかけての話です。
城跡の公開活用のための整備計画立案は,他の歴史文化財のそれと大きく異なるところがあります。計画策定での前提が難しいのです。
整備公開しようとする時期―築城初期か廃城時期か、それとも多くを失っている現在かの選択があり、それによって整備後の景観が大きく異なるからです。何を優先すべきかとの問題に繋がり、消失した縄張りや門や櫓建物なのか、散逸する資料の収集家財贓物の調査などがその項目になることです。又、城跡が有する特異性を優先したい、住民の将来的な歴史文化活動の活性化のためにとの計画課題に挙げることもできるのです。
そんな訳で私ぐらい日本中の城跡を観た人はいないと自負しています。城跡整備等に係るかどうかは別として、全国の城跡を見て周った中で、印象的な城跡について時代ごとに私の解釈を含めて投稿したいと思っています。
城柵跡
私が未だに印章に残っているのは秋田県にある払田柵跡(国指定史跡)です。8世紀末から9世紀初めのころ、有名な坂上田村麻呂の蝦夷征伐で造られた城柵であると考えられ手も、何ら史料も残っていない城跡です。
私が訪れた時期はまだ案内板さえほとんど見られない時で、広大な水田の中に一つの城柵の中核となる丘陵がポッツンとあるだけの遺跡だった。唯一、あまりに小さな区画で県の職員が埋蔵物の発掘調査をしているような状況だった。
何が私が衝撃を受けたかは、日本国内では大変珍しい「内と外」を明確にした城跡だったからです。
予想される城構えは丘陵上部に政庁(中心的な施設)を置き、周囲の平地に幾重にも木柵(地上約4メートル)を廻したものである。例えるなら適地に構えた゛広大なアッパチ砦”である。
確かに何万人もの遠征軍を引き連れているので、広大な敷地を囲うのは当然として、こんな広大な規模の城柵を廻すには地元の人達の協力無くしてでできる訳もなく、柵の内部に移った人たちも多くいたはずである。外で構える敵軍の地元の人達と複雑な感情が芽生えたはずである。
(払田柵は埋設の柵柱の年輪測定から802年ごろものである)
城館
中世の城館は居館から進展したものであることは明らかである。
地方の力を蓄えた有力者が居館の周りに堀を掘り、敷地の周囲に柵を廻し門を構えたものである。より生活感が強く存在する城跡でもある。
私が最初に担当した中世城館の城跡は八戸市にある根城跡(国史跡)南部氏の代表的な城跡である。訪れた当時、まだその本丸の発掘調査が行われていた時期で、その建物の柱穴痕の多さに驚いたことを憶えている。その特徴は母屋と思われるような大きな建物や厩や矢倉の建物、鍛冶など行ったと思われる竪穴式の住居など、何度も同じような規模で繰り返し建て替えられていることである。
少し、私の言い訳です。
この投稿の本当の目的は、最も誤解されている中世戦国時代の山城の見方をメインに投稿しようとしたのですが(最初の画像は、島根県にある月山富田城の模式図です)、一月九日現在、全く違うところでSNSで大騒ぎです。
私も世がオオザワギしているスキャンダルに、自分の目も意識さえも取られがちになるから、いと哀し、です。
まるで「自分は何をしているのだろうか」と考える始末。
よって、改めて次回も城跡についてを投稿したいと思います。
申し訳ない!