
―昔の石積施工で「クレーン」の代わりになるものは何か?―
城石垣築造の難問です。
毎日のように石垣修復の現場に立って「いつも」疑問に思っていたことがあります。石積施工で積石も持ち上げ設置するために必要不可欠の「クレーン重機」について、昔は何の機材を使ったのだろうかと。考えるほどに深い闇の底をさ迷ったことがあります。簡単のようで、誰も確かめようとしない超難問です。
お判りでしょうが、「修羅」や「三又」ではありません。「修羅」は豊臣秀吉が大阪城を築くとき、石垣の大石で引き回すときに使った(イベント用)運搬用の機材です。運搬はできても、設置はできません。「三又(三又)」は重量のあるものを上下に移動する機材で、石積の場合、上下の移動もそうですが前後の移動(据え付け)ができないのが難点です。
三又の図

「一又(いちまた)」
(この呼び名が正しいかは分かりません)
私が文化庁の若い担当官と史跡整備事業の内容でやり合い、ほとんどの国の補助事業を「降ろされていた」とき、それを見かねたある建築史の先生が「街づくりに熱心な自治体があるから手伝ってみないか」と誘われた場所で、私にとっては貴重な体験をしたことがあります。
名古屋近辺の「尾張ではない、三河だ」と言い張る小さな町、足助町の街づくりに参加する中で、私はその地方の山城跡の復元等周辺整備を手伝ったのです。足助町は当時としては全国的に先進的な特色ある「街づくり」を実施しているところでもあり、数少なくなった歴史的、文化的な環境を遺しているところでもあります。
城跡は山城で山頂に本丸跡とその周囲の尾根に幾つかの曲輪跡を遺しているものでした。
私は、最初の日に、すでに天守閣建造物の工事が始まっている現場で驚くようなものを観たのです。
それは、山頂の小さな本丸曲輪に建設している天守櫓の建て方をしている大工の棟梁(差配)と優秀なその弟子たちが使った「一又」という道具です。

山頂本丸跡には、重機が入れるような道もなく、そしてクレーンを置けるような場所も無い場所なのです。昔ながらの手段で複層の櫓建物を組み立てなければならないのです。
驚いたのは、重量がある柱や梁の木材を運搬、架構する作業である。長い丸太材の一本を支柱にして、その先端につるした梁材を、四方八方に結んだ八本の縄の引手が、差配よく、起こし、吊り上げるように階上に据え付けたのである。八人の引手にそれぞれ指示をのもとに縄を曳き、天守櫓の階上で待つ大工に渡すのである。その共同作業は感動するものであり、原理は分かっていても初めて見た私は感動と感心していたのです。
石垣施工の動作
城石垣の石積施工には、積石材の横移動と何回もの上下の移動(擦り付けと石組)が必要です。クレーンに変わるものが修羅(横移動)や三又(上下の移動)でないことの理由です。 私は二又(にまた、二本の柱で頭を移動することで横移動も吊るした縄で上下する)であると思っている。
今でも三又はよく知られた吊り上げ用の道具である。三本の丸太材の先端を組んで、その先端からつるした滑車で吊り上げる伝統的な機材である。しかし、三又の難点は上下の移動はできても横の移動が簡単ではないことである。大きな建造物の架構にも、城石積施工にもどうしても資材の上下と横移動が可能な道具でなければ作業が成り立たないのです。
私の推測、「二又⁈」
私が推察するに、積石用の石材は丸太材よりはるかに重く、つり上げ設置には三又を改良した「二又」を使ったと考えるのが合理的である。
二又はその三本の柱のうち一本を「自由」にし、支点(上部の支点)の位置を動かす(引き起こす)ことで横移動を行う道具である。
現在は、三又でも使いこなせる人はほとんど居ないし、まして「二又」など見る機会もない。今の時点で「二又」を当時の人が使ったと確証する方法もないが原理的にはそれ以外の道具は考えられないでいる。
