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それでも服を着て生きていく
前回に引き続き自問自答ファッションのお話。
ドーピングしたくない
前回、「上下黒の服装で友達の個展に行ったら何か表現活動をしてる人っぽく見られて自分を恥ずかしく思ったよ」というエピソードを書いた。
その後も考え続けて気付いた自分の感情があって、それは、
「クリエイティブじゃない自分が、クリエイティブな要素をファッションでドーピングするのは許せない」
というものだった。
我ながら衝撃であった。頭の中をデッカチャンが『気~づいちゃった気~づいちゃった』と歌いながら行進していた。🥁
(注:デッカチャンを知らない方へ……知らないまま読み進めていただいて特に支障はありません)
“ドーピング”とは、5月のあきやさん講演会でお話に出た言葉で、「自分に欲しい要素をファッションでプラスしてみる」という意味でここでは使っています。
もう何回この話をするのかという感じで恐縮ですが(すまんのう)、私は絵を描いたり文を書いたりしていた過去にしがみついているので、何も書かず燃え殻となった今でも「アート」「表現」「クリエイティブ」といった要素に多大なコンプレックスを抱いているのだった。
そして私はこんなに「表現すること」に恋い焦がれているのに、今は何も表現活動をしていないので、そういう自分が「それっぽい」装いをするのは許せないと思っていたのである。そのことに気付いた。
私は自問自答ファッションに出会ってからずっと、「自分の中の“おもしれー”部分(アートやクリエイティブなことが好き、本や漫画が好き、自分も表現活動をしたい)を“ファッションで”表現したい」と言ってたくせに、その実、自分自身がそれを許してないという矛盾が生じていたのだ。
だから「なりたい」と「装い」がうまく結びつかない感じが常にあって、堂々巡りしてる気分だった。
まあひとつ前のnoteで『なりたいは服じゃない』って小見出し付けてるくらいだしね……。
自分で読み返してびっくりしたよ、あきやさんのご本の帯には『服は、なりたい自分』と書いてあるのに! 私はなんで正反対のこと言ってんだろ~~。
ふさわしくない私
ここまで考えて、ふと腑に落ちたことがあった。
自問自答ファッションと出会ってから少しずつ実店舗で試着をするようになっていたものの、私の中でものすごく「入りづらく、思いきって入っても肩身が狭く、萎縮してしまうブランド」があった。
sacaiとマルジェラである。
中でも印象に残っていたのはマルジェラで、初めて5ACを持たせてもらったときに「ミーハーに見える、自分の底の浅さが浮き彫りになる」と思ったことがずっと気になっていた。バッグの試着の感想としては異質、かつ、我ながら随分と辛辣な感じがして。
でも今なら分かる気がする。
sacaiとマルジェラは私にとって「クリエイティブ」の象徴のようなブランドだったんだと思う。
萎縮するのは“自分がお洒落じゃないから”ではなくて、“自分はクリエイティブじゃないから”だった。ヒィ。
クリエイティブじゃない自分はクリエイティブなブランドにふさわしくないので、5ACを持った感想が上記のようなものになったんじゃないかと思う。
(※sacaiとマルジェラ以外のブランドをクリエイティブじゃないと思ってるわけではないです。念のため。)
それでどうするの?
「表現することに憧れはあるのに行動できてません。コンセプトは『幻想小説家』ですが小説書いてません。本当の私は『幻想小説家に憧れてるだけの人』が正しいです。惹かれるファッションはあるのにそれを身に付ける自分が許せません。どうしたらいいですか?」
もし人からこんな相談されたら困ると思うし、「好きにしなさい」としか答えられない気がする。面倒くさいし……。
書きたいなら書けばいいし、書きたいと思えないなら諦めるしかない。「小説家になりたい」と「小説を書きたい」は似てるようで全然違う願望で、後者の情熱が自分の中にはもうないことが問題なのだった。
その上で『幻想小説家』というコンセプトを掲げ続けるのか。
それがファッションの指針になるなら掲げ続けるのもありだと思うし、現実の自分とのギャップに耐えられないほど辛いならコンセプトを変えるのもありだと思う。
何者でもない自分のまま、コンプレックスはコンプレックスのまま抱えておくとして、それでも服を着て生きていくのだから、改めてファッションについて考えてみてもいいんじゃないか。
私の劣等感はファッションとは別にあって、それは行動でしか解消されないのだから。
そう思った私は先日、マルジェラにお邪魔してきた。
タビを履いてみたくて、あの形状から試着の際の靴下はどうすれば良いのか疑問だったけど、Twitterで呟いたら山並つばきちゃん(https://note.com/yamanami_t)とおだまきさん(https://note.com/yellowcar)が親切に教えてくれた。
初めて履いたタビは、「自分とは関係ない世界の、クリエイティブなブランドが出してる、ファッショニスタの象徴の靴」ではなかった。ちゃんと自分と同じ世界にいて、他でもない私の足を包んでくれていた。
(ちなみに靴下はタビ型のものを貸してくれた)
その後はsacaiでも気になっていたバッグを持たせてもらった。
どちらのブランドでもその日は購入に至らなかったが、とても良い時間を過ごさせてもらった感触が残った。
自身のコンプレックスを切り離して見てみたら、プロダクトとしての素晴らしさが純粋に自分の中に流れ込んできたのである。
「自分はこのブランドから選ばれない」と思っていたけれど、勝手に卑屈な気持ちになって選択肢から外していたのは私の方だったんだ。それが分かって良かった。
自問自答はなんのため
先日あきやさんの日記を読んで、ブワっと目の前に綺麗な風が吹いたような気持ちになった。
こうやって書いてみると、「すごい空想すぎる🐿️」と思うのですが、とんでもな〜く「薄目」でみると全部叶っている(今の生活にエッセンスは紛れ込ませられている)と思って嬉しかったです🥰
↑ここです、この部分。
こちらはあきやあさみさんとムームプランナーさんのスペースの感想として書かれているのですが、私が自問自答ファッションのどこに惹かれているのかを思い出す一文でした。
私が自問自答ファッションに触れていちばん感銘を受けたのは、「ファッションを通じて『なりたい』エッセンスを今の生活に散りばめて、なりたい自分に近付けていく」という考え方でした。
あきやさんはファッションをメインにそれを伝えてくれてるんだと私は捉えています。
ところで上記のあきやさんの文の中で「エッセンス」って言葉のチョイスが素敵だなと思ったんですが。「エッセンス」って、私はぼんやりと、何かの要素の端の方の薄まった部分のことかと思っていたんですが、改めて調べたら「本質的要素」「真髄」という意味でした。わあ。
この先、もしかしたら小説や絵はもう書けないかもしれないけど、言葉を大切にして、美しいものへの感性を開いていくことはできる。
心の自由と、そのための健康と、それらを維持できる水準の生活をしたいな。
『幻想小説家』というコンセプトはね、しばらくは(仮)で……。これ実際の職業としての意味はともかく、凄くイメージしやすかったんだよね、ファッションの方向性として。
あとはシオドア・スタージョンの小説のタイトルまんま『夢みる宝石』なんかもコンセプトとして良いなあと思っています。人じゃなくなったけど。
🌟🌝🌟👜👞🥻💍🛍️👠👚🌟🌝🌟
まあ~でも「なりたい」を考えると、ファッションにおけるドーピングはやっぱりすごく有効だし、自分を助けてくれるだろうなとも思いますね!
あと己のここ数年の服のテイストに飽きたってのもある……。
マンネリになってきたというか、つまらない気持ちがあるのも事実でございます。
じゃあ私、MUVEILのスタジャン買っていいかな??
終わりです。