どの子にも対話的な学びを実現するために
6月の半ばを過ぎました。学校によっては運動会もやり遂げて、4月から取り組んできた子供への指導が形となって見え始めていることと思います。
しかしその一方で、現行指導要領で強調されている「対話的な学び」の実現が、なかなか順調に進まないという悩みを抱えている教師もいるのではないでしょうか。
一見、活発な議論であっても、個に着目すると、形式的な交流に終始していて思考の広がりや深まりが見られない子供が存在している。そしてその状況がなかなか打破できない。そんなことはありませんか。
そもそも「主体的・対話的な深い学び」は、確かに日本の授業が求めてきたものの王道ですが、裏返して考えれば、それだけ実現が容易ではないということです。
まして、世界情勢に目を転じてみれば、対話を通して異なる考えの一致点を見つけ合意の形成を図ることがいかに困難であるのかがわかります。
教室という「小さな世界」であっても、対話の困難さという点では同じです。
そこで、文字通りどの子どもにも対話的な学びを実現するための方法として、「個に焦点化した授業を構想すること」を提案します。
まず、「対話的な学び」の具現化の前提として以下のことが大切であり、これらについてはきっと既に取り組まれていることでしょう。
・対話的な学びを行う目的を子供と共有する。…「リフレク帳171」でも述べました。
・対話によって学ぶ必然性のある学習課題や問いを準備する。
・具体的な対話が可能な学習課題や問いを準備する。…何についてどのように話し合うのか・話し合っているのかが、子供にわかる学習課題や問いでなくては、子供は対話ができません。
・板書やワークシートなどで互いの考えを可視化する。
・日常において話す力、聞く力を鍛える。
しかし、これらの支援だけでは、一部の子供はきっと教師の願う対話が行えないでしょう。
ここからこそが、<その子供にとっての教師>の腕の見せ所です。
そこで、その「対話的な学び」が苦手な子供に焦点化した授業を構想するのです。
個に焦点化した授業の構想といっても、45分間の始めから終わりまでを一部の子供・一人の子供で組み立てなくても構いません。45分間の中の一場面で、その子供が他者とかかわり、自分の考えを広げたり深めたりすることのできる手だてや、あるいは、その子供の考えが周りの子供に検討されたり受け入れられたりする手だてを用意するのです。
もう少し具体的に述べると、どの子供をどの子供とをかかわらせ、どのように考えを広げたり深めたりさせるのかを、学習課題や問い、言葉掛け、学習資料(具体物、ワークシートなど)や板書のレベルで構想し準備するのです。
その時に最も忘れてはならないことは、その子供にかかわらせたい相手(やその子供)の考え・学び方などのよさや価値を、教師が具体的に示したり強調したりすることです。
なぜなら、その子供は、そこまでしなくては、相手(やその子供)の考え・学び方が理解できないからです。
考えてみてください。
なぜその子供は「対話的な学び」が苦手なのですか。
その子の特性として、他者の考えや考え方を理解することが苦手だからではないですか。
ある相手の考えを取り入れることでその子供の考えが確実にレベルアップすると教師に思えたとしても、その子供が相手の考えを理解したり、レベルアップした考えのもつ価値に気付いたりすることができなければ、絵に描いた餅で終わります。「交流」をさせただけの教師による失敗です。子供集団全体を対象にした手だてだけでは、一人一人の子供は、教師の指の間からこぼれ落ちてしまう可能性が大きいのです。
個別最適な学びを実現するとは、本来こうした意味のはずです。繰り返し学習は必要ですが、努力と自己責任の理念を背景にしたタブレットによる繰り返し練習を指すのではないでしょう。
こうした個のための授業を構想することは、教師にとって負担が増えると感じるかもしれません。
しかし、それほど負荷はかかりません。
その子供が、なるほどと実感できるかかわり方を経験できたならば、経験を数回重ねることで、その子供は変容します。
他者の考えや考え方を理解する能力がそう簡単に身に付くのかと不審に思うかもしれませんが、ささいなきっかけで子供がぐんと伸びたという事実を教師なら何度か目の当たりにしているはずです。
また、上述した「対話的な学び」を実現するための様々な指導も繰り返しているわけですから、相乗的に効果が上がるのです。
「対話的な学び」に限らず、学習は個のレベルで行われるものです。
「個に焦点化した授業を構想すること」に、ぜひ取り組んでみてはどうでしょうか。