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年度初めこそ全体で話し合う目的を考える

少人数では活発に話し合えるのに、全体での話合いになると発言者が一部に限られたり、意見がつながらなかったり…という悩みを抱える教師が少なくないのではないでしょうか。

そして、年度初めの今の時期は、全体での話合いよりもまだペアやグループでの話合いにウエイトを置いているという教師が多いようにも思います。
つまり、「見通し」をもって、「全体で話し合える学級集団」にするための指導を段階的に進めていることでしょう。

おそらくそうした取組をしている教師が大切にしていることは、次の3つの指導でしょう。

1 話し合うためのスキルを鍛える段階的指導

2 全体の場で安心して意見を言うことができる学級づくり

3 互いの考えを交流し、共有するよさを子供が実感する指導

1 話し合うためのスキルを鍛える段階的指導」では、聞く・話す活動を中心に書く場面も織り交ぜながら、①まず、結論を伝えるだけの授業、②次に、理由・根拠も付け加えて発言する授業、③そして、根拠と理由付けを分離して伝える授業という段階を踏むことでしょう。こうした段階的指導は、論理的な思考力を鍛えることにも繋がります。
また、発言内容を的確に聞き取ることができるように、①ペアトークで相手の言いたいことだと受け止めた内容を、「~と言いたいんだね。」と確認する、②自分の考えと比較し、同じかあるいは違うのかについて印などを付けて反応する、③聞き取った後、質問や反対意見が伝えられるように準備する、などの場を設定していることと思います。こうした聞き方指導を丁寧に行うことで、言外の真意を理解したり、要点を捉えたりする力も向上しますね。
さらに、適切な発音や発声、話す速さなどの話すことそのものの技能についての指導もしている教師も多いことでしょう。

次に、これらのスキル指導を実際の言語活動を通して行う際に、「2 全体の場で安心して意見を言うことができる学級づくり」のために、相手の意見は最後までしっかり聞くことや、相手の考えを否定しようとして聞くのではなく、まず理解し受け入れようとして聞くこと、そして、話合いの目的は考えの一致点を見出したり合意の形成を図ったりすることにあることなどを指導していると思います。
最近、教室で「論破」という言葉を用いる子供が増加していると聞きますが、心理的安全性が担保されていない教室では、全体の場ではもちろん、少人数の話合いでも活発な話合いは望めないでしょう。

つまり、「3 互いの考えを交流し、共有するよさを子供が実感」していてこそ、話合い学習は成立するのです。したがって、「話し合って良かった」と子供が振り返ることのできる授業をすることが必要なのですね。

しかし、これらの「全体で話し合える学級集団」づくりの指導は十分なものと言えるでしょうか。

例えば、上記のような振り返りの場で、「〇〇さんの意見を聞いて、そんな考え方もあることを私は知りました。」とか、「みんなで話し合うことで、…だった私の考えが~に深まりました。」といった子供のリフレクションを私たちは期待しがちです。

もちろん、子供が話合いそのものをメタ学習することは、話合い学習の学び手を育む上で必要不可欠です。

ですが、どれほど見通しをもって、子供に「話合いのスキル」「心理的安全性」「話合いの良さへの実感」を育んできても、「全体学習がうまくいかない」という悩みは改善されないのではないでしょうか。

なぜなら、以上の「見通しをもった段階的指導」だけでは、「話し合う必然性を子供がもつ」という視点が欠落しているからです。
全体の場で話合いをする目的が明確でない限り、子供たちは話し合えないのです。
話合いの目的が不明確な授業では、多くの場合、教師の意図を組んでくれた数人の子供が頑張って発言をするだけです。仮に、活発な授業になったとしたら、それはその教師が多くの子供に慕われている「人気者」だったからでしょう。

かつて、授業といえば、「学習方法は全体での話合いが当たり前」と考えられていました。
そして、多くの教室が「討論の授業」に憧れました。
子供たちが火花を散らすような華々しい話し合いを繰り広げる授業が高い評価を受けた時代が、あったのです。
そのため、あろうことか日頃から子供に発言を強要したり、研究授業の前に「お稽古」さえしたりする教師まで存在しました。

その一方で、子供たちも話し合うことが「上手」でした。学級の「凝集力」が高く、「みんなで一つのことに取り組むことが当たり前」という「文化」が学級を支配していたのです。例えば、毎週月曜日の朝は前週の土曜の夜の人気テレビ番組についての話題で教室が大盛り上がりをしたり、お菓子のおまけシールが流行すると、競い合うように集めたりといった具合でした。
そんな学級では、「みんな」で意見を言い合うことは、学習の目的以前に「儀式的」な義務だったのです。

「全体での話合いがうまくいかない」と感じる教師の頭の片隅には、もしかしたらそんな過去の光景が「心地よい思い出」として残っているのかもしれません。

子供が多様な存在であることがようやく認知されるようになってきた今において、もし全体での話合い学習という方法を選択するならば、教師、子供ともに、例えば次の質問に答えられなくてはならないのではないでしょうか。

なぜ30人という多人数で一緒に話し合うのか。仮に一人が一分間発言したならば、一人一回発言するだけで30分間必要になるのに。それは非効率的ではないのか。

また、仮に全体で30通りの考えが出されたとしても、その後はどうするのか。果たして30種類の考えの共通点や相違点が正しく理解できるだろうか。多くの場合は不可能だろう。それなのに、なぜ30通りも出させるのか。

その一方で、30人全員の子供に全体の場で意見を述べることを求めることが現実的か。全体の場で的確に話すことが苦手な子はどうしたらいいのか。また、正しく聞き取ることが不得意な子供はどうしたらいいのか。教師は発表者の意見を聞き取ったり板書をしたりしながら、そうした子供たちに対して的確な支援ができるのだろうか。

そもそも、なぜ「学級全体で話し合う」という学習方法を採るのか。「課題」に対する「結論」を出すためとして、「学級全体の結論」を出さなくてはならない理由は何なのか。

「授業とは最終的に学級全体で話し合わなくてはいけないものだ」とか、「話合いは全員(もしくは全員に近い子供)が参加し、盛り上がり、深まらなくてはいけない」といった「話合い」観は幻想にしか過ぎないのではないでしょうか。
「対話的な学び」・「協働的な学び」とは、「学級全体」という空気のような「実体」が行う虚ろな姿ではありません。

一年間の始まりの今、話合い学習のために、先のような「見通し」をもった段階的な指導を行うことは必要です。しかしそれとともに、教師も子供も、学級全体で話合い学習をする目的とその目的に合った方法について、問い返し、互いに考えを明確にしていく「見通し」をもったプロセもまた求められている時期だと考えます。