見出し画像

ショートショート 10,きっかけ

23時44分。香織は隙間風が漏れる、ガスも電気も止まったボロいアパートの一室で蝋燭の灯りを頼りに1人、凍える体に布を巻き付けひび割れたガラスケースのスマホを見つめ、日が変わるのを今か今かといつまでも待ち侘びていた。

明日は彼女が手がけた漫画が初めて掲載される大事な日。
高校卒業後、漫画家を目指して反対する両親の手を振り払い、その身一つで上京した。頼る当てもなくバイトで何とか食い繋ぎ、闇雲に漫画を描き続け、血の滲むような努力が身を結びようやく掲載へと漕ぎつけた。



23時52分。漫画掲載ページを開いては閉じ、開いては閉じてを繰り返し、昨日更新された漫画を上の空で眺めながら、家を出てからの日々を思い返す。親の声を無視しがむしゃらに走り始めた日から早7年。飯にありつけず意識が朦朧とした日も、何も思いつかず何もできず自身の惨めさに家を出たことを後悔した日も、友人の陽の香りを放つインスタに嫉妬し裏垢で誹謗中傷した日も、全ては今この時の喜びを増幅させるための試練だったと彼女は思う。

23時56分。開いていた漫画を閉じ、そのまま深く息を吸って吐いて……目を閉じる。自分で描いた漫画がただ掲載されるだけ。それだけのことだが、彼女の閉じた瞼の奥を輝かせるには十分であった。

23時57分。彼女の輝く瞳に一点の曇りが生まれた。漫画掲載の喜びを誰に報告しようか考えていたからだ。彼女には切っても切れない相手がいる。それが親だ。学歴至上主義の親は高校卒業後は当たり前に大学に行くようにと子を育てた。彼女も例外ではなく、進路に関して何度も何度もぶつかり解消しないまま逃げるように家を出て連絡も取らないまま7年経った。

彼女と親の仲は良いはずだった。それまで良好だった関係も進路をきっかけに崩れていった。大学に行ってさえいれば今も親と変わらず連絡を取って、帰省して、とできていたのではと振り返る日もある。彼女は親に対して怒っても憎んでもおらず、ただあの日家を飛び出したプライドを捨て切れずにいるのだ。

だから漫画で連載が決まった今、親と連絡をしてプライドをかなぐり捨てようか、その葛藤が彼女に曇りを与えていたのだ。

23時59分。いよいよ漫画が公開されるまで1分を切った。更新されないと分かっていても体が待ち切れず何度も画面を下にスワイプする。


24時。日付が変わりついに漫画が公開された。たくさんの人が一気に見てサーバーが落ちるかもとか考えていたが、そんなことも起こらず普通に見れた。いいねの数も少しづつ増え、5分経たずに2桁に達した。人に見られる喜びを噛み締め、何度もサイトの更新を行う。

24時8分。ついに最初のコメントがつく。イチコメにしては3行と長文である。編集者以外からの初めての生の声。しっかりスクショをしてからゆっくり目を通す。

「初めての連載おめでとう。読ませていただきました。まだまだ粗が多いところ沢山ありますが、これからに期待したい作品でした。」

いきなりの上からのコメントに苛立ちが来たが、書いてくれる労力を考えるとありがたいものである。そのままスライドしてると大きなスペースの後一言こう添えられていた。

「追伸 誕生日おめでとう。たまには顔出せよ。」

父だ。こんなことを書ける人間はこの世界では父しかいない。母はそもそもコンピューターを使えない。いやそんなことはどうでも良い。彼女でさえ忘れていた誕生日を祝い、7年の確執をそっと取り払う一言。この7年間プライドを捨てきれずにいたのは彼女だけではなかったことを瞬時に理解した。

24時16分。未だたった1件のコメント欄をそっと閉じ、薄暗い部屋の蝋燭をケーキに見立てフッと消し、7年間押してこなかった11桁の番号を打ち込んだ。

いいなと思ったら応援しよう!