乗り換え
僕が住んでいるのは田舎だ。好んで田舎を選んだわけじゃない。払える家賃から地域を絞っていったら、これくらい都心から離れることになっただけだ。
しかし住んでしまえば特に不便さを感じるわけでもなく、広い空が見えるこの街を僕は気に入っている。
アパートの目の前にはバス停があって駅まではすぐだ。だが歩いても15分くらいで行けるので普段は歩くようにしている。130円のバス代も歩けばタダだ。ほんの少しだけど、得した気分にもなれる。
だけど今日は天気がよく気温が高い。
「あと12分待つのか… 」
バス停に着き時刻表を見る。次のバスの到着までは12分。今から駅に歩き出しても着く時間は変わらない。それでもバスに乗るのには理由がある。
今日は汗をかきたくない。彼女と会うまでは。彼女に汗臭いなんて思われたくはない。
都心の高級マンションに住む彼女と付き合い始めて半年になる。月に何回か、僕はこうして彼女の住む街に会いに行っている。
彼女の住む街まではバスを降りてから電車に乗り換えて1時間半かかる。
僕が一方的に彼女の住む街に出向くのは、彼女の時間を無駄にさせたくはないという優しさではあるが、本当の理由は僕の住む街には何もないからだ。
とはいえ僕にとってもたまに感じる都会の空気は新鮮だし、なにより彼女と会うためなら往復3時間も楽しい小旅行だ。
バスは3分遅れで到着した。よくあることだ。
乗り込むと、僕の他にはおじいちゃんとおばあちゃんしかいない。3分の遅れにこだわる人はここにはいない。都会とは違う。
裕子と付き合い始めたころ友人に言われた。
「世田谷の豪邸に住んでるそんなお嬢様がお前に興味を持つなんて。きっと裕子ちゃんにはお前が珍獣みたいに見えてるんだろうな」
そうかもしれない。
友人を介して知り合ったのだが、僕は裕子との共通点を全く見つけられないでいた。だがなぜか裕子の方は僕を気に入ってくれたようで、僕達はほどなく付き合うことになった。
僕が都会に新鮮さに感じるように、裕子にとっては僕が新鮮だったのだろう。
僕と友人の予想に反して裕子は優しかった。
最初のデートの後、僕を見送ってから「家に着いたら連絡してね。それまでちゃんと起きてるから 笑」と言ってくれた。
「今駅に着いたよ。あとちょっとで家につくから。今日はありがとう」とメールをした僕に裕子は「じゃあ、家につくまでメールしてようよ」と言ってくれた。
僕はバスには乗らずに、歩くことにした。
裕子とメールをしながら、いつもよりもゆっくりとアパートまでの道を歩いた。
今でも覚えている。その夜の月は、とてもきれいだった。
だが。
付き合い始めて3ヶ月を過ぎたころだったと思う。
デートの後の裕子からのメールは、パタリとなくなった。
もちろん裕子だって疲れている時もある。僕が家に着くまで起きているなんて、そもそも必要のないことだ。気にしないように、と思いながらも僕は少しひっかかりを感じ始めていた。
それからは普段のメールも減っていった。あからさまなほどに。
会えばその時は「好きよ」と言ってくれるのだが、デートの予定はたびたび延期されるようになっていった。
「会いたい」に代わって「仕事が忙しいから」という言葉を聞くようになっていった。
「もう飽きたの」と直接は言われたことはないが、裕子の行動と言葉は、それを僕に伝えるのには十分だった。
以前はあれほど楽しく、家に着くのが惜しく感じたデートの帰り道。
僕はだんだんと疲れを感じるようになり、
バスに乗るようになっていった。
たまに都会に住む人が「田舎暮らしに憧れる」などと言う。中には移住してくる人もいる。だが、たいていはなじめない。
都会に住んでいるから田舎がよく見えるのだ。
都会に住む人にとって、田舎は住むところじゃない。住めるところじゃない。
たまに遊びに来るのがちょうどいい、べったりと日常を過ごす場所ではないのだ。
こうなることは最初からわかってた。
何もかもが違い過ぎる。あまりにも。
やっぱり裕子とは、無理だったんだ。
僕は降車ボタンを押した。
バスが駅に着いた。
裕子との時間は今でも忘れていない。
とても短かったけど、あれはあれでよかったのだと思う。
おかげで僕は都会を学び、
そして裕子との別れがあったからこそ僕は、
今の彼女と知り合えたのだから。
さあ、ここから乗り換えて、
彼女が待つ目黒まで、1時間半の楽しい小旅行だ。
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