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旅立つ日 #わたしたちの人生会議
以前ある医師にこんな話を聞いたことがある。
「どれだけ覚悟ができているつもりでも、いざとなると人は生きたいと思う。そして家族は生かしたいと思う」
その医師はある患者のかかりつけ医だった。末期症状であり家での看取りを希望していたその患者さんとご家族に対し、医師は
「救急車は呼ばないでください。救急車がくれば救命措置が行われます。それが彼らの仕事ですから。何かあった時には必ず僕に電話をしてください。24時間、携帯を持ってます」
と伝えていたという。
だが、その時が来ると家族は慌てて救急車を呼んでしまった。その医師がかけつけた時には、救命措置が行われている真っ最中だったらしい。
それが当たり前かもしれない。
目の前で自分の家族が苦しんでいれば、事前の約束など頭から吹っ飛んでしまう、助けたいと思う、その方が普通なのかもしれない。
◇ ◇ ◇
僕は自動車免許証の裏に臓器移植に対する意思表示をしている。それは妻にも話している。
「もし僕が死んだ時には、それが脳死であっても、僕の体で使えるものがあれば全部使って欲しいと思ってる」
妻からは一つだけ要望があった。
「目と皮膚だけはやめて欲しい 」
感情的に無理なのだろう。それは僕にも理解できた。だから記載としてはこうなっている。
(皮膚に関しては意思表示できる箇所がない)
僕にもしものことがあった時には、救命措置は取らないで欲しい、葬式もしないで欲しい、墓もいらない、と妻に伝えてある。
そんな感じで我が家ではまあまあ最期の時について話している方だろうと思っていたのだが。
5年ほど前に登録している骨髄バンクから「マッチングした」との連絡が入った。僕は喜んでそれを受けた。
病院での健康診断などを経たのち、家族への『説明と同意』の場所が設けられることになった。「こうした経験をしておいた方がいい」と思い僕は息子もその場に連れて行った。
医師、移植コーディネーター、僕、妻、息子、その他のスタッフでテーブルを囲み、説明が始まった。
こういう時は『万が一』の話が強調される。僕は提供する側で、骨盤から骨髄を抜くだけなのだが、それでも危険がゼロというわけではない。
万が一、つまり移植過程における事故だったり死亡例だったりするわけなのだが、それをまあまあしっかりと説明される。当たり前だ。そもそも万が一が起きた時のための同意でもあるからだ。
説明が終わると「では、奥様、ここにサインを」と妻に紙が差し出された。
だが。
妻はペンを持ったまま。
サインができない。
落ち着いて聞いていると思っていたのだが、どうしていいのかわからなくなってしまっているようだ。
僕が「大丈夫だから」と言うと「大丈夫?書いていいの?」と僕を見て妻は言った。
僕が「うん。大丈夫。書けばいい」と言い、それからようやく妻はゆっくりとサインをした。
一部始終を横で見ていた息子は終始落ち着いていて、帰りには「僕もいつか骨髄バンクに登録をする」と言ってたので少し安心したのだが。
わかったことは、もし僕に万が一のことがあった時、妻は冷製に判断できないということ。
僕が苦しがっていればたぶん妻は救急車を呼んでしまうだろう。
僕が脳死したとしても僕の身体から臓器を抜くことをたぶん妻は了承できないだろう。
息子はどうだろうか。そうした状況の父と母を見ながらも、僕の意志通りの判断をしてくれるだろうか。
そして僕はどうだろう。
土壇場になって
「お願いだ、助けてくれ… どんなことをしてでも、生きたい」
と言ってしまうのではないだろうか。
わからない。
現実的に考えれば、思い浮かべているようなシチュエーションで旅立てることなんてまずない。その時は突然、想定外の形でやってくる。
その時に何がどうなるか、わからない。
だが、どうなったとしても、僕はそれを受け入れるしかないのだと思う。
最後が自分の希望通りにいかなかったとしても、それが僕の人生なんだ。
その覚悟は必要なんだと思っている。
だけど、だから「この話をいくらしても無駄」と言いたいわけじゃない。
むしろ、だからこの話をこれからもたくさんしていこうと思う。
事あるごとに、僕の意志を、希望を話していきたいと思う。
できれば最後の決断が必要な時に「そういえば、あなたはずっと言っていたわね」と思い出してもらえるように。
「そうだね、母さん。父さんはずっと言ってたよ。それで間違いないんだよ」と言ってもらえるように。
その時に、僕自身もみんなも、勇気を持てるように。
なんて言いながら。僕以外の家族が旅立つことなんて全く想定してないのが丸わかりですね。自分勝手ですいません(笑)