自分と家族の最期について。
12月18日『わたしたちの暮らしにある人生会議』という本が販売されます。この本で語られるテーマはちょっと重く感じるかもしれません。でも、必ず誰しもが通る道、たどり着く場所です。
人生の最期。
その時には、できる限りの延命治療を望みますか? 人工呼吸器をつけたいですか? 自分が判断できる状態ならまだしも、ひょっとしたら意識を失っているかもしれません。選択を迫られる家族はいったいどうしたらいいのでしょう。
そうしたことをあらかじめ話し合っておくことをアドバンス・ケア・プランニング、略してACPと呼びます。日本語では『人生会議』と訳されるようです。
去年の暮れにこんな募集がありました。
この考えに感銘を受けた僕はある体験談を書かせていただきました。
骨髄バンクのドナーになった時の話です。
自分の意思と家族の葛藤。いざその時に冷静でいられるのだろうか、そんな内容です。
この記事は佳作に選ばれ本に掲載されることになりました。西先生、審査員のみなさま、ありがとうございます。
その後、今年の3月に僕はもう一つ記事を書いています。
テーマは同じく、人の最期についてです。
この記事の中で僕は小説『神様のカルテ』の文章を紹介しています。
しばしば医療の現場では患者の家族が「できることは全てやってくれ」と言うことがある。五十年前までの日本では日常の出来事であったし、その結果のいかんに関わらず、その時代はそれで良かった。拙劣な医療レベルの時代であれば、それで良かった。
だが今は違う。
死にゆく人に可能な医療行為の全てを行う、ということが何を意味するのか、人はもう少し真剣に考えねばならぬ。
「全てをやってくれ」と泣きながら叫ぶことが美徳だなどという考えは、いい加減捨てねばならぬ。
現代の驚異的な技術を用いて全ての医療を行えば、止まりかけた心臓も一時的には動くであろう、呼吸が止まっていても酸素を投与できるであろう。
しかし、それでどうするのか?
心臓マッサージで肋骨は全部折れ、人工呼吸の機械で無理やり酸素を送り込み、数々のチューブにつないで、回復する見込みのない人に、大量の薬剤を投与する。
これらの行為の結果、心臓が動いている期間が数日のびることはあるかもしれない。
だが、それが本当に”生きる”ということなのか?
医師の権限のすさまじさは、これらの事柄がただちに実行できることにある。
小説『神様のカルテ』の主人公の栗原 一止は医師です。その医師が判断に苦悩する。
最期の迎え方に「こうあるべき」という絶対の正解はないからです。
昔は「先生にすべておまかせします」でよかったかもしれません。
でも今はどうなのでしょう。本当にそれでいいのでしょうか。その自らの意思を放棄しているようにも聞こえるその言葉は、家族と医師を困らせることにならないでしょうか。
いつか必ず来るその時。その時のために話し合っておくことが人生会議です。
ですが『わたしたちの暮らしにある人生会議』の著者である西先生はこうおっしゃいます。
人の価値観は、会議室でチェックリストを埋めていけばわかるものなのでしょうか?むしろ、本人の価値観や希望を知る手掛かりは 日常会話の中に こそあるのではないかと私たちは考えます。
「来年の今頃は・・・」
「私がそのうち齢をとったらさあ・・・」
「もし私が、うちの親のような病気になったら・・・」
などの、日常のやり取りの中に埋もれてしまいそうな、はかない言葉を拾い上げて、本人の価値観を紡いでいくことこそが大切なんじゃないかなと思うのです。
そういった言葉たちを集めていった物語が、いざというときに「あの時さ、おじいちゃんこんなこと話していたよね」「あの人だったら、こんな時きっとこう言ったと思うよ」という形で、本人の尊厳を守ることにつながるのではないでしょうか。
もしご興味があればこの本を読んでいただければと思います。
そして「この本読んだんだけどさ。僕はこう思うな」と家族と話すことができれば、その日常会話が最期に自分の尊厳を守ってくれるかもしれません。