宗教と進化心理学

僕は無神論者だ。世界を動かしている人格的な存在(いわゆる神さまや仏さま)はいないと考えている。一般的に人びとが考える神さまとは、人格とか意思を持っていて、僕ら人間のことに関心を持っていて、僕ら人間がお祈りをしたり寄付をしたりしたら喜んで、僕らに恵みをくれる存在である。

しかし僕は無神論者であるゆえに、世界は法則と偶然性に支配されていると考えている。神さまを信じている人は、100円のお賽銭で神さまが自分のために世界の法則を曲げて利益を与えてくれると思っているのだろうか。「神さまにお願いしたら願いがかなった」「お参りを怠ったからバチがあたった」と思う気持ちはよくわかるけど、それは偶然の一致なのかもしれない。人間は、偶然なできごとに理由をつけたくなってしまうのである。

こんなふうに筋金入りの無神論者である一方で、僕はお寺巡りと仏像鑑賞が趣味だ。お堂のなかで静かに座り、おりんを静かにならして目を閉じ、仏像に手を合わせる。おりんの音が消え入るタイミングでそっと目を開けると、仏像と目が合う。そのときのこころの平安はなにものにもかえがたい。こころがすがすがしくなり、自分を客観的に見ることができ、明日の活力が湧いてくるのである。

そう、僕は、仏さまは願いを聞いてくれないことを分かっていながらなお、自分のこころのために、仏さまを拝むのである。古今東西人類は宗教を持ってきた。神さまは存在しないにもかかわらず宗教が存在し続けるのは、それになんらかの意味があると考えるのが進化心理学である。人間に恵みをもたらさない行為はやがて消えゆく定めなので、宗教行為はプラスの意味を持っていると考えざるを得ない。

神さまとは、僕らが原始人だったころの長老みたいな存在に似ていて、そこから宗教が発生したものかもしれない。長老の言うことを聞いて貢物を捧げたら恵みをもたらしてくれる。逆に、長老に反抗すると痛いめにあう。長老は、怖い存在であると同時に、群のメンバーに慈しみを持ってくれており、従っているかぎりは、やさしくて頼りになる存在である。まさに神さまみたいなもんじゃないだろうか。社会的な生き物である僕ら人間は、長老に従うという思考回路を持つことで繫栄してきた。この考え方の副作用として、天候とか山とか川とか森とかの非人格的な存在を畏れ敬うようになったのが宗教なのかもしれぬ。

宗教行為は、これまで何百・何千年も続いていたものが多い。その宗教が途絶えていないということは、ずっとアクティブな信者を獲得してきたということで、それなりの魅力を備えているということだろう。だから僕は、お寺で古い仏像に手を合わせる。

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