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変わりゆく世界:コロナウイルスの影響に寄せて

僕ら生態学者は、生物が環境のなかでどのように暮らしているかを考えるのが仕事だ。僕ら人間も生物であり、僕らを取り巻く環境のなかでなんとか日々を送っている。

人間という生物の特徴は、自分で自分たちの暮らす環境を変えること。ふつう生物は、与えられた環境でうまくやり抜くために全力を尽くしはするが、環境そのものを積極的に変えようとはしない。数少ない例として、人間以外にビーバーがいる。彼らはダムをつくり、安全に暮らし子育てできる環境をつくり出す。

このように、自分で環境を改変する生物のことを「生態系エンジニア」と呼んだりする。僕ら人間も生態系エンジニア。少し気の利いたビーバーみたいなものだ。



2020年、そんな僕らをコロナウイルスが襲った。

それは、僕らが何十年もかけて築き上げてきた社会システムをいとも簡単に、わりと根本的なところから揺さぶることになった。コロナウイルスはもちろん人類にとっての大問題ではあるが、一歩引いた目線で見れば、人間社会の試金石であるともいえる。

レジリエンスという概念がある(※ちなみにレジスタンスとは、外圧が加わっても変化を拒む能力だ。)。レジリエンスとは、外圧によって変化してしまっても、もとに戻る能力のことである。ほんとうに人間にとって必要なことなら、コロナウイルスの影響で一時中断しても、早晩もとに戻るだろう。

食べることや人と話すこと。これらはコロナの渦中では「悪」のようにみなされることもあったりするが、これらを求めることは人間の本能的なものだから、コロナ騒ぎが収束したらもとに戻るんじゃないだろうか。もとに戻るどころか、自粛の反動でとてもテンションの高い数年間がやってくるような気もしてならない。

その一方で、満員電車で出社して、ときには新幹線に乗って出張して会議して、という現代日本の習慣は、コロナ騒ぎが終わってからも、もうもとに戻らない気がしている。昭和の高度経済成長期、日本では人口の都市集中が進み、満員電車での通勤を余儀なくされる人が増えていった。

日本の社会が農業中心だった時代は、朝起きたら自宅のとなりにある田畑で作物の世話をしていたわけだから満員電車とは無縁である。これが日本の歴史の圧倒的な長期間を占めていて、満員電車時代はたかだか直近の数十年にすぎないのである。

もっとも満員電車で通勤するという選択にはメリットがあった。田舎で農業をするよりも都会で会社勤めをするほうが経済的に安定するので、トレードオフとして満員電車をがまんするのもわるくない。生態学的な表現をすると、都会で会社勤めをするという戦略にはデメリットもあるものの、総合的にはその人の生存と繁殖の役に立ってきたのかもしれない。

このようなわけで高度経済成長期には合理的だった「満員電車通勤戦略」だが、そのような生活習慣が廃れる機は徐々に熟していた。その最たる要因はインターネットだろう。インターネットが普及しはじめて20年あまり、いまでは有線でも無線でも高速で安定した通信が提供されていて、その気になったら出社しなくても、全国どこでも仕事できる状況はすでに整っていたのである。

ただし、たとえ非効率でもみんなで一緒に苦痛を味わうのが美徳とされる日本社会での改革はなかなか進まなかった。たとえその必要はなくても、決まった時間に対面で会議に出席するのが当たり前だったのである。僕もその感覚に毒されていて、会議に参加するためには日本全国、あるときは外国にまで出張しなければならないと思っていた。1時間の会議のために片道2時間かけて駆けつけるなんてざらだったのである。

そんな昨今だったが、コロナウイルスの影響で強制的に対面での会議はとつぜんの終焉を迎えることになった。在宅勤務未経験だった僕らは、最初は戸惑ったものの、慣れてしまえば毎日の通勤が必要ないことに気づいてしまったのである。たぶん僕は、これからは対面の会議のために出張する機会は激減することだろう。それどころか京都大学内の会議でもオンラインでやるのがよいとさえ思っている。

こんなふうに不可逆の変化が生じることは、自然界でもある。たとえば森林火災がそうだ。森の樹木は葉や枝を一定の期間で入れ替えていくので、地面には枯葉や枯れ枝が堆積していく。森の成立から時間がたてばたつほどこれらの有機物は増えていくことになる。そしてこの有機物は、森林火災の燃料になるのだ。一見安定してるように見える森でも、実は火災という劇的な変化を起こすための燃料を徐々に蓄積しているのだ。

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これは、一見安定してるように見えた日本の「満員電車通勤社会」が、実は変化を引き起こす要因を徐々に蓄積していたことと似ている。機が熟せばマッチ一本で大火事が起こるように、社会にも劇的な変化が訪れる。安定しているように見えるシステムでも、それがずっと続くという保証はない。自然の生態系でも人間社会でも真実だと思う。

易變體義という中国のマイナーな古典に「治が極まれば乱を思い、乱が極まれば治を思う」という表現があるらしい。

安定しているように見えたら変化する、変化したと思ったらまた安定する、みたいに万物は流転しているという意味だろう。中国的な道教や老荘思想に通じる考え方であるが、現代社会を考えたり、生態系を科学的にとらえたりするときにも役立つ考え方である。とにかく、永続的な安定など幻想かもしれないのだ。

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