生物進化とこころ―自然と人との関係を問い直す
自然は人を魅了する。荘厳な森林、青い大海原、風の吹く草原、あるいは道端の雑草まで、僕は自然のいとなみに感動してしまう。そもそも、子どものころから自然が好きだったので、紆余曲折あったけど研究者になったともいえる。似たようなきっかけを持つ研究者も多いことだろう。
若いころは、手つかずの自然を求めて山奥に分け入っていた。大学の学部生時代は、アメリカのイエローストン国立公園に果てしなく広がる原生林で調査を行い、生態系のさまざまな法則なるものを解明してやろうと意気込んでいたのであった。
大学院に入って、コンピュータシミュレーションを主な道具とするようになったため、僕の主戦場はエアコンの効いた研究室となり、日々パソコンの画面とにらめっこするのが仕事となった。その反動で、休みのたびに森とか山とかに出かけていた。なんで僕は自然にこんなにもこころ惹かれるんだろう?自然が好きな人は僕以外にも数多い。人間のそういう心理がいったいなんなのか、ずっともやもやしている。そしてこれを研究することが、いつしか僕のライフワークのひとつとなった。
ハーバード大学の進化生物系の学科(Department of Organismic and Evolutionary Biology)でのこと。僕自身は当時から地球温暖化と森の関係を研究していたけれど、まわりの先生や学生たちの過半数は生物進化が専門だったし、出席した講義や、授業のアシスタントをしたクラスの多くは進化生物学に関するものだった。こんなわけで、温暖化にまつわる環境と生物の関係を考えているときも、僕は常に生物進化の目線で研究対象をとらえるようになっていった。
人も生物として、その生存と繁殖に役立つ形質が選択されていく。人は「やりたい・やるべき」と思うときだけ行動を起こす。そんな心理的傾向も重要な形質である。そして、自然に興味を持つという形質が広く人類に存在する以上、それには何らかの、生物としての意味があると思うのである。
生物進化は誤解と異論の多い学問だ。「進化」って言葉は現代人の日常の語彙に組み込まれている。言葉が一般化していくと、本来の学術的な意味とは異なる使われ方が編み出され、それが民間に定着していく。そうなるとこんどは、本来の学術用語として使うときに市民からの誤解を招く恐れが出てくる。ちなみに、僕の本職である生態学(エコロジー)も、一般の関心が高いゆえに異論と誤解の多い学問だし、地球温暖化についての誤解も枚挙にいとまがない。
なんにせよ、純粋な学問としてスタートしたテーマでも、人間にとって身近なことを研究していると、それは世間に浸透していき、一般市民の日常会話にのぼるようになる。それ自体は望ましいことだけど、その過程で誤解が生じたり、トンデモ説がまことしやかにささやかれたりすることも多いのである。
なぜ僕は、こんなふうに誤解されやすい学問ばかりやってるんだろう。もしも専門が高度にマニアックな研究だったら・・・。たとえば深海に生きるダイオウグソクムシを専門に研究する人だったら、それが一般市民の日常の会話にのぼることはまずないから、誤解を受けずにすむのかもしれない。でもやはり、僕の選んだ学問は、僕らしいんじゃないだろうか、と考えたりするのである。サイエンスに興味のない人をふくめてすべての現代人にかかわりのあるテーマ、普遍性のあるテーマが気になってしまう。世の中のためになりたい、と言えば自分を美化しすぎてる気もするが、その意識は無償の奨学金で大学院に行った僕が背負う十字架なのかもしれない。さらには、自分の研究で世の中を変えねばならない、という少し子どもじみた使命感があるのも正直なところである。・・・余談が過ぎてしまった。
さて、生物進化ってどんな学問だろう。道ゆく人にインタビューしてみたら、「進化論?あれでしょ、サルから人が生まれたってやつでしょ?」なんて答えが返ってくるかもしれない。では、進化生物学ではどんな研究をするんだろう。恐竜やマンモスやアウストラロピテクスの研究をするんだろうか。たしかにそういうのも進化生物学の守備範囲なんだけど、それがすべてじゃない。
そもそも、いま生きてる生物は、すべて進化の結果として現在のかたちになったのだ。だから、あらゆる生命現象の意味を考えるとき、生物進化を忘れてはならないと思っている。春にモンシロチョウが飛ぶことや、秋にモミジが紅葉することや、アフリカのライオンが子殺しをすることや・・・、とにかくどんな生命現象に対しても、進化生物学は示唆を与え得るのだ。こんなわけで、進化生物学は、絶滅した生物にロマンを馳せるだけの学問ではなく、いま生きている生物を理解するために根本的に必要な学問なのだ。
そして、人間も生物であるがゆえに、生物進化の影響から逃れることはできない。たとえば、人間が二足歩行なのも体毛が薄いのも、みんな進化の結果なのだ。さらに言おう。人間は、からだだけじゃなく、こころも進化でできている。そう、現代の先進国に生きて日々満員電車に揺られてる僕らのこころと感情も、進化によってできている。学校や職場、家庭で僕らを毎日突き動かす感情。悩みや憧れ、後悔やうらみや、憎しみや愛情のすべて。これらの感情が生じるのも、進化の結果なのである。僕らの感情に対する進化の影響は日ごろ意識してないかもしれないけど、それは確固とした事実である。僕らがこれまで、進化についてあまりにも無頓着だっただけなのである。
ある感情が僕らに生じる仕組みを考えてみよう。たとえば満腹感と、それに伴う幸福感が生じる原因は、おいしい食事をたくさん食べたからだろう。この場合の「おいしい食事」のような直接の原因を、至近要因という。それでは、なぜおいしい食事は幸福感をもたらすのか。
滋養に富む食べものを十分に食べることは、僕らの健康を維持するために不可欠で、それはわれわれ個人の生存と子孫繁栄に益があるからだといえる。このように、なぜ人間がその感情を持っているかを説明する要因を、究極要因という。この究極要因が、生物進化の原動力である。そして、究極要因の観点から、人間の感情や知覚がいったいなぜ存在するのかを考える学問を、進化心理学という。
自然淘汰は生物を進化へと突き動かす。たとえば樹木は、あいている空間を求めて枝を伸ばす。日光をたくさん浴びて光合成するためだ。競争に負けて他の木の陰になるとうまく光合成できず、死が待っている。かといって、強度の低い枝をやみくもに伸ばしたのでは、嵐のときに折れてしまうだろう。適応度を上げ自然淘汰で残るためにギリギリのバランスで進化するその様子は、まさに軍拡競争にたとえられる。
最近、進化心理学の視点からの研究をはじめたテーマがある。森と人との関係についての研究だ。僕は森や樹木が好きだ。これは僕の特殊な嗜好というわけではなく、おなじ感覚を持つ人は、世界中にたくさんいることだろう。世界のいろんな場所で、人々は森を愛し敬い、樹木に親しみを抱いている。このように人間に普遍的に見られる傾向は、進化心理学で説明をつけることができるんじゃないかと考えられる。
ところで、生物進化の原動力は自然淘汰だ。ひらたく言うと、その生物の生存と繁殖に役立つ特徴が発達すること。生存や繁殖にマイナスの影響を与える特徴は、それを持つ個体が死に絶えることによって、消えてゆく定めにある。この生存と繁殖に役立つ度合いのことを、適応度という。適応度の低い特徴は自然淘汰によって消えてゆく。適応度の高い特徴は、次第に強められていく。
こんなふうに考えると、人類が「原始人」と呼ばれるほどのむかし、森を愛し敬う感情を持った人たちが生き残り、そうじゃない人たちが死に絶えるようなできごとがあったんじゃないだろうか。これが僕の仮説だ。もちろんこの表現は誇張で、現実には、森を愛する人は、そうじゃない人よりもほんのちょっと適応度が高かっただけなのかもしれない。短期間では計測不能なほど小さな差でも、それが何百何千世代も繰り返されるうちにその違いは明らかになる。そして、適応度を高める特徴は定着し、それを低下させる特徴は消えてゆく。
人が持つ森に対する感情は多様である。人は森を愛し親しみ、いやしを感じるばかりではない。人には、森をおそれる感情が存在する。森は人に恵みを与える反面、ときに危険な場所になることもあるからだ。プラスとマイナスの入り混じった複雑な感情。この「おそれ」を漢字で書くならば、「畏れ」というのがふさわしいだろう。単に怖がるのではなく、自分よりはるかに力強いものを敬い大切にする感情。
このようにミックスされた複雑な感情が原始人に定着し、現代人にも残ってるのではないだろうか。森の緑をきれいだと思い、若葉やキノコを愛らしく思い、深山幽谷に神秘性を感じ、森で迷った夕方には身の危険を感じドキドキする。僕らにとっての森は、アミューズメントパークのような場所だ。いろいろな感情を呼び覚ます森。人はなぜ、こういった感覚を持っているのかを考えている。
森への畏れは、アミニズム(自然崇拝)という原始宗教の発生と深い関わりがあるだろう。僕は進化生物学の教育を受けたためにはっきりした無神論者になったんだけど(もちろん、科学者のなかには頭のなかで神様の存在と生物進化を両立させてる人もいるけど)、それでもなお、宗教には意味があると思っている。それは、神様などの超自然の存在はいないとしても、神様を信じ、宗教の掟を守ることには適応度を高める効果があるのではないか、ということ。
宗教によって先人の知恵を効率よく伝えることができたり、理屈によらず畏れという感情に訴えることでコミュニティのメンバーを導くことができるのかもしれない。宗教は憎しみや戦争などの副作用を引き起こすことも多いけど、なんらかのポジティブな意味もあると考えている(※)。
森や植物は美しいと思う。それは昔も今も多くの芸術家の創作の対象となっているだけでなく、芸術家じゃないふつうの老若男女も春のサクラや秋のモミジに感動を覚える。このような現象は、たまたま植物が、人間の好みに合う美しさを持っていたというのではない。
事実は逆である。森や植物と密接に関わりあいながら何百万年もかけて進化してきた人類は、好ましい植物を見ると「美しい」と感じるようになった。それが適応度を上げたからだ。逆に人間は、動物の死体や腐った果物などを見ると、「醜い」と感じる。そう感じ忌避することで食中毒や感染症を防ぐことができ、適応度が上がるということなのだ。このように、人間の美的感覚や芸術性も生物進化によってつくられている。これが僕の持つ仮説である。
いま僕のなかで、生物進化が熱い。しかし、ここまでいろいろ書き連ねてきたような仮説は、既存の科学の手法を使った研究がむずかしく、多くの科学者をしり込みさせてきたテーマである。そんなとき背中を押してくれたのは、京都大学の学際研究着想コンテスト(http://www.cpier.kyoto-u.ac.jp/contest/)。学問の自由さで名高い京都大学のなかでも、特にユニークで独創的な研究提案を競うコンテストである。2014年のコンテストで、僕は研究仲間とともに、進化生物学・宗教哲学・芸術学を融合させて人間と森の関係を問い直すという提案を行い、なんと最優秀賞をもらうことができた。
京都大学学際研究着想コンテストは、1枚のポスターだけが審査の対象である。これは僕らのチームでつくったポスター。芸術学・宗教哲学・音響学。多彩な共同研究者とともに人間の本質を突き止める。ラディカルなくらい野心的で、われながらドキドキする研究だ。
人はなぜ森で感動するのか。こころになぜその感覚が存在するのかを解明する。一見無謀とも思えるこのチャレンジに、本気で挑んでみる。僕が担当する京都大学芦生研究林は、エコツーリズムのさかんな場所でもある。そもそも、なぜ人々は時間とお金をつぎ込んで森にやってくるのだろう。森で何を得て帰るのだろう。都会に生きる現代人にとって、森が持つ精神的な価値を明らかにしてみようと思っている。
生物進化にかかわる思想・著述の第一人者に、ドーキンスというイギリスの科学者がいる。僕がこの連載のような一般向けの文章で書こうとしていることは基本的にドーキンスの主張とおなじなんだけど、宗教に対する姿勢だけは違う。彼は宗教の負の側面を強調し攻撃するけれど、僕は無神論者でありながら、宗教はそんなにわるいことばかりもたらすわけじゃないと思っている。同様に、一見ムダに思える人間の芸術性も、それが人類に普遍的に見られるゆえに、人間にとって本質的な意味を持つと考えている。宗教は「ウソ」「まやかし」、芸術は「ムダ」「ぜいたく品」なんて言われることも多いけど、それが人類に普遍的に見られる以上、意味がないわけないのである。
近ごろ僕も、人間の感覚をテーマとした研究をはじめた。手軽になった脳波計やウェアラブルカメラといったガジェットを使い、人と自然のかかわりを調べるのだ。人のこころは、森のなかでどうなるんだろうか。森がうつくしいとか、いやされるとか、畏敬の念が生じるとか、いったいどういうことなのか。芸術家が思いつくような発想を、科学の手段で解明するような研究だ。考えていて素直にドキドキするし、客観的な意義も大きいと思っている。necomimiという脳波計を装着し、森で遊ぶ。これは集中とリラックスを脳波から検知し、リアルタイムで視覚化する装置だ。発売当初「世界の発明ベスト50」 にも選ばれた。森に入って、いつ・どこで、人の気持ちはどう動くだろうか。いろんなことを調べられる可能性を秘めている。