私のとなりの病(2)
2020年 9月 20日、日比谷図書文化館のホールで行われた、映画『えんとこの歌』と『妻の病』上映後のトーク対談を、全3回に分けて掲載しています。
トーク対談者
◆ 西川勝:自称・臨床哲学プレイヤー。元看護師。あれこれの現場で活動中。著書に『ためらいの看護ー臨床日誌から』(2007年 岩波書店)、『となりの認知症』(2013年 ぷねうま舎)などがある。認知症の人と家族の会 大阪支部 代表。
◆ 伊勢真一:1949年東京都生まれ。ドキュメンタリー映像作家。デビュー作は『奈緒ちゃん』(毎日映画コンクール記録映画賞他受賞)。その後、数々のヒューマンドキュメンタリーを自主製作・自主上映で創りつづけ、2019年『えんとこの歌』毎日映画コンクール ドキュメンタリー賞・文化庁映画賞優秀賞を受賞。
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外側を見てるんじゃなくて、内側を一生懸命考えさせてくれる、ぼくはむしろそれこそが映画なんじゃないかって思うんですよね。(伊勢)
伊勢 映画『妻の病』が出来上がった頃、試写会に観に来た友人が「認知症の映画を観に来たのに、ラブストーリーだよこれは」って言ってたんだけど、多分それは褒め言葉で言ったんだろうって、ぼくは理解してるんだけど(笑)。要するに多くの場合、どうしても「認知症にはこういう種類があって…」というふうに、特にドキュメンタリーになると観に来る人もそういうのを教えてくれるっていう思いで来る人が結構いらっしゃることも含めてね。「なんだ、何にも教えてくれない…」っていう、…この映画に限らないんだけどね(笑)。「伊勢さんの映画は何も教えてくれないもんね」って言われるんだけど(笑)。この『妻の病』という映画自体は、何かの賞に選ばれるとかベストテンに入るとか、そういうことが殆どなかったんで、「こういう映画をちゃんと観れるっていう人は少ないんだな」っていうか。何でもないような普通の人の普通のことの、でもその人一人ひとりの外側じゃなくて内側をね、それぞれが語ったり、あるいは語らなくても「どう思ってるんだろう」って観る人が想像したり…。外側を見てるんじゃなくて、内側を一生懸命考えさせてくれる、ぼくはむしろそれこそが映画なんじゃないかって思うんですよね。
伊勢 “内側を見せる”ということが成立するためのひとつは、「暗くして観る」こと。こういうところ(会場)で暗くして観ると、画面と“向き合う”ことにならざるを得ない。そうすると、どうしても観ながらね、「石本さん、こう言ってるけど、本当はどうなんだろうなあ…」「でも自分も思ったりしたことがあったなあ…」「弥生さんは一体本当に何を考えているのかなあ…」「でも、ある意味で石本さん以上にいろんなことを考えている気がする」とかっていうことを、一人ひとりがものすごく想像するわけです。
それは、映画を観ている1時間半でも2時間でも、そういう中で“内側を想像していく”っていう時間を持つということだと思う。それで、観終えてから「レビー小体型認知症ってなんですか?」って言われても、「あれ? そんなこと何か言ってたかな…?」って思うくらい、やっぱり僕の映画の場合は何も教えてないんだけど(笑)。
でも、“内側を見る”っていうことをね、もっともっとみんなに観て考えてもらうっていうことができないかなって、ずっと思い続けてる。その“内側”を見せてくれた石本さんであり、弥生さんという存在があってこそ、っていうことだけどね。
お互いの情報をやり取りするだけじゃなくって、“同じものをただひたすら観る”ことが今、大事な時なんじゃないかなっていう気がする。(西川)
西川 いや僕もね、今日ここへ来たのは、伊勢監督のDVD-BOX発売の記念もあるんですけども(笑)、やっぱり「こういう時期だけど、“映画館で映画を観る”っていう機会を、何としても継続していきたい」っていう伊勢監督の話からでした。
今の世の中、本当に映像情報が溢れかえっているわけですよ。スマホの中にだって映像情報、動画はいっぱいあるわけだし、駅のポスターだって最近は動きますからね。
でも、例えばぼくが今日『妻の病』っていう映画を観ようと思ったら、家から出て来ないとダメですよ。テレビやパソコンなら家でも観れるかもしれないし、スマホならどこにいても観れるわけですけども、わざわざ家から出てここまで来て、そしてまだ明るい上映館の中で、白いスクリーンを見て待たなきゃいけない。何にもないのに待たなきゃいけない。それで、まだ映画も始まってないのに話す言葉も何となくみんな声を抑えてるみたいな。高鳴る期待と、やっぱり静かにしなきゃみたいなね。なんかそういう経験ってテレビの前ではまず起きないですよ。
昔はね、まだビデオデッキもなかった頃、8時からしか始まらないやつだったら、必死になってみんな8時にテレビの前に並んでたわけですけど、まあ今はテレビも簡単に録画していつでも好きな時に観れるっていうね。ちょっと面白くなかったらチャンネル変えられるわけですよ。ところが映画館に入っちゃうとですね、面白くなくたってスクリーンを消せるのは映写技師だけなんですから、自分が出ていくしかないみたいなね(笑)。そうとう覚悟のいる関係性の中、この暗い中で、でも赤の他人と一緒にしばらくその時間を没頭するっていう。
伊勢 そうだね〜。
西川 単純にお互いが言葉を交わすっていうような、お互いの情報をやり取りするだけじゃなくって、“同じものをただひたすら観る”っていう、“同時に観る”っていうことがものすごく大事な、今こそ大事な時なんじゃないかなっていう気がします。
伊勢 “一人”になれるじゃないですか、映画って。だから、10人で観ても100人で観ても、一人。逆に言うと、一人で観ても10人、100人で観てる。それは、“普通に人がどんなふうにして生きているか”っていうこととすごく重なる気がするんですよね。
西川 そうですね。
伊勢 それこそさっきの“となり”っていう、一人だけどとなりに誰かいたり、となりが空席だったり…。この本(「となりの認知症」ぷねうま舎)の一番最後にね、西川さんがすごくいいことを言ってるんだよね。あとがきのとこだったかな。
それぞれの人が、それぞれのままで、一緒にいること。自分のとなりは、自分ではない人のためにあけておく。この当たり前のことが、「認知症」と呼ばれる人と、その人と一緒に生きていく人との希望につながると信じています。
━━ 西川勝 著「となりの認知症」(ぷねうま舎)のあとがきより引用
「ああ、となりに場所があるんだ」っていうことを意識していくと、ちょっと変わってくるのかなと(伊勢)
伊勢 いいこと言うなあ〜と思ったんだけど(笑)。それは今のソーシャルディスタンスでとなりを空けなさいっていうんじゃなくて、“となりの人”“となりの席”“となりにいる”って、“となり”っていうのがね。確かにそこが塞がってると、となりにその人を必要とする誰かが来るときに、その場所が、居場所がない。それぞれの人にとって、そういう“となり”っていうのが。
家族もそうだし、友達だとかもそうかもしれないけど、それがもっと豊かにっていうか、フレキシブルにね、「ああ、となりに場所があるんだ」っていうことを意識していくと、ちょっと変わってくるのかなと思います。
〈つづく〉
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