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「50年」

2022年 12月

「私は生きることより思い出すことのほうが好きだ。
結局は同じことなのだけれど」
(フェデリコ・フェリーニ)

フェリーニはさすがにいいこと言うなあ…。
映画を創ることは“思い出すこと”そのものだもの。
歌を唄うことも“思い出すこと”か?

今や、国民的歌手とも言えるユーミンが、音楽生活50年だったようで、色々なところで取り上げられている。たいしたもんだ、50年にわたり第一線で活躍してきたんだからなあ。

かくいう私も、2023年に映画生活50年を迎える。凄いでしょう…。ヒットを連発したユーミンとは大違いの、売れないドキュメンメタリーの創り手が、何を勘違いしてるんだと言われそうだけど。

50年前の正月元旦、私の父、記録映画の編集者だった伊勢長之助が旅立ち、その半年程後に、私は映画の仕事を始めるようになった。それまで、父への反発から、「映画の仕事だけはやらない!」と言い続けてきたにもかかわらず、ひょんなことから映画の仕事をナリワイとして始めるようになったのだ。メシを喰うためだ。

映画はヒトナミに好きだったけど、謂わゆる映画青年というわけでもなく、これでメシが喰えるんだったらありがたい…という思いだった。PR映画やテレビやカラオケや、ありとあらゆる映像の仕事をした。与えられた仕事を注文に応じて創ることの繰り返しだった。言わば映像創りの職人という感じで、その在り方自体も好きだったけど。

障がいのある姪っ子「奈緒ちゃん」のドキュメンタリー映画を創ってから、自主製作に手を染めるようになり、以来二十本以上の映画を創ってきた。世の中に知られていないような、地味な映画ばかりだけどね。立派な主義主張をメッセージするような映画はほとんど無い。一般的に「ヒューマンドキュメンタリー」という括りで言われるような作品を、創り続けてきた。たまたま、自分の身近に居て出逢った人を描いたものが多いんだ。

「他力本願」という言葉の元々の意味はよく知らないけど、ほとんどが「他力」的なキッカケで創られたドキュメンタリー映画だ。そう考えてみると、映像の仕事を始めた頃の受注仕事の時代から今に至るまで、一貫して「他力」で、ナリワイとしての映画を創り続けてきたように思う。よくぞナリワイを生き抜いてきたというふうに思い返すと、それはそれでよく頑張ってきた。「50年、御苦労様」と言って、自分で自分を褒めてあげたい。

今は多くのドキュメンタリーの創り手が自分でカメラを回して、という製作の在り方だけど、私は「自力」では何も出来ないような映画創りを続けてきた。

「だって君はひとりで勝手に何かをやってゆくことなんて出来ないだろう…」

と言ったのは、自作『えんとこ』『えんとこの歌』の主人公で寝たきりの歌人、今は亡き友人 遠藤滋だけど、私は彼の言う通りの映画生活50年を生きてきたように思う。

「他力」という在り方の映画創り、
「他力」という生き方しか出来なかった、ということだ。

1月に父の没後50年を追悼し、私の映画生活50年を振り返る上映会を企画した。

そこから、もう一度始めようと思う。

“思い出すこと” は “生きること”の中身なのだから…。

(かんとく・伊勢真一)


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