「寂しい」
2022年 8月
「みんな 寂しいの…」
自作『ゆめのほとり 〜認知症グループホーム 福寿荘〜』という映画のワンシーンに、我がオフクロにそっくりのお婆ちゃんがカメラに向かって、そんな言葉を語りかけるカットがある。編集しながらそこへ来ると、いつもドキッとして心が震えた。
もっと優しくしてやればよかった…と、とうの昔に旅立ってしまった両親への親不孝を悔いる気持ちと、そのお婆ちゃんが言うように、「人はみんな寂しい」ということへの思いにかられるのです。
ここまで生きて来てわかることは、「寂しい」という気持ちは生涯消えるものではない、ということかな…。多分、誰にとっても。
私が「ヒューマンドキュメンタリー」をメインのフィールドで映画創りに取り組んで来たのは、最初から意識してやって来たのではない。気がついたら、自分が手がけて来たのは、言えば「ヒューマンドキュメンタリー」なのかもしれない、という感じだ。「ヒューマン? そんな甘いもんじゃ、世の中変わらない…。もっと現状を見つめて、問題提起しなけりゃあ!」と批判の眼差しを向けられることも度々だった。
《人間》を見つめることが、《社会》を見つめることに繋がるに違いない、という思いなんだけどね。
「ヒューマンドキュメンタリー」と言う時の「ヒューマン」の日本語の言葉のニュアンスが《人間的》であったかく、優しい…という面だけを強調する傾向があるからだと思う。受け売りだけど「ヒューマン」の原語、ラテン語の意味は《カオス》というニュアンスもあるらしい。
「人間的」とは、カオス(混沌)と、昔々の人は言い当てていたんだな…。「人間的」をあったかい、優しい、と思いたい気持ちは分からないではないけど、「愚か」で「弱くて」「寂しい」、というのも本当だ。むしろ、後者の方が嘘でないような気もする。
「問題」を見つめるというよりも、「人間」を見つめること…。「問題」には答えがあると言えるかもしれないが、「人間」には答えなんかないもの。
「みんな違ってみんないい…」と言ったのは、金子みすずだけど、寝たきり歌人・遠藤滋の「えんとこ」介助者の一人が言っていた「みんな違ってみんな“変”…」の方が、シックリくるかな。
「もう二度と戦争をしてはならない」と言いつのりながら、戦争を繰り返す、戦争をしようとする「人間」。
80年前の、親父の戦争体験を辿った自作『いまはむかし』緊急上映の旅の途上で、観に来てくれた一人ひとりと向き合いながら、「いまはむかし、むかしはいま」と呟くように語り合う、長く暑い夏だった…。
つい口ごもってしまうような、そんな歯ギレの悪い映画かもしれないけど、口ごもったその先を、考え続けよう、お互いに…と思っているんだ。
人間をマルゴト見つめて、そこに写り込んだことを、「寂しさ」や「弱さ」や「愚かさ」を含めて、手渡す…そんな「ヒューマンドキュメンタリー」を創り続けたい。
あと何作、創れるだろう…。もう、カウントダウンが始まっているのかもしれない。
いのちある限り、
「寂しく」「弱く」「愚か」な自分自身が写り込む、映画を観る一人ひとりが写り込む鏡のような映画を創り続けよう。
我が「ヒューマンドキュメンタリー」を、これからも応援してほしい。
(かんとく・伊勢真一)
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