「弱虫」あるいは「勇気」
2021年 12月
寒い…
寒さに弱く、暑さにも弱い、ただただ弱いのだ。およそドキュメンタリーの創り手らしからぬ「弱虫」の私が、「勇気ある者」として讃えられ、戸惑っている。
オランダ・アムステルダムでの映画祭で、新作『いまはむかし〜父・ジャワ・幻のフィルム〜』が四回上映され、観てくれた方々の何人かが、「勇気ある映画」「勇気あるカントク」という感想を寄せてくれたのだ。
国内での上映では、いつもの作品同様に「甘い」「腰が引けてる」という感想があるくらいなのに…何故かな?
創り手に対する敬意が、ヨーロッパの方が強いこともあるのでしょうが、「弱虫」としては嬉しいというよりも恥ずかしい、ひたすら戸惑っている。
二年間に及ぶ「コロナ禍」でも、「弱虫」は、打ちのめされるばかりだった。
我がいせフィルムの生命線である「自主上映」が、一時はほぼ全滅の状況が続き、自分たちで企画する上映だけを頼りにやってきた…それもわずか数人のお客さんだけで…。
映画は“不要不急”だ、「オマエラなんか要らない」「止めてしまえ」と言われているようなプレッシャーの中を、それでも何とか生き延びてきた。
「弱虫」なのによくぞ生き延びたのか、「弱虫」だから生き延びたのか?
「勇気」は案外「弱虫」だからこその「気」のようにも思う。話を戻せば『いまはむかし』がヨーロッパの方々に「勇気」を感じさせたのは、三十数年かけて80年前のフィルムに記憶を語らせたこと、その思い入れ、粘りこそが「勇気」と呼ぶにふさわしい、と思ったのかもしれない。「弱虫」と「勇気」は反対の在り様ではなく、繋がっているように思う。
「弱い」からこそ思いを深め続ける。
「弱虫」は実は「勇気」の素のような気がしてきた。テメエが「弱虫」だからって、都合のいいこと言うな、と思う人もいるかもしれないけど…。
一寸の「弱虫」にも五分の魂!
「コロナ禍」の状況で、編集室に籠って完成させたのが新作『いまはむかし』だ。
この二年間で6本の作品をバリアフリー化し、本格的にバリアフリー上映に取り組む気持ちにもなった。
さらに「ごちゃまぜ映画会」と称して、自分の映画にとどまらず、他の人の作品とのカップリング上映、映画のジャンルを越えて、音楽、芝居、文学等、多様なジャンルの友人たちとのジョイントイベント等々、なんでもありの楽しい場創りも始めた。
「コロナ禍」があってこそだったかもしれない。負けてたまるか!!
「コロナ禍」で苦しい思いをしている、同志諸君!!!
“よく傷ついたものが、よく闘う”…と誰かが言ってたぞ。
あれ? “よく闘うものが、よく傷つく”だったかな…。
この苦しみは無駄じゃないから。
私は新しい年も、自分なりの映画を創り、観てもらう活動を続けるつもりだ。
「弱虫」は、「勇気」に繋がると励まされたから。
ノーベル文学賞を受賞したボブ・ディランだって歌ってる。
♪ 男らしいって わかるかい?
ピエロや 臆病者のことさ… ♪
──「I shall be released」・訳詞:大塚まさじ
(伊勢 真一)