「いのちゆいのちへ」
2022年 6月
5月に旅立った学生時代の友人、映画『えんとこ』『えんとこの歌』の主人公・遠藤滋が、もっとも気に入っていた自作の短歌のひとつ…。74歳にして上梓した処女歌集のタイトルは、『いのちゆいのちへ』と名付けられた。「わたしのいのちから すべてのいのちへ」ということだ…と、歌集のあとがきに書かれている。
「ありのままのいのちを肯定し、生かし合う。たとえそれがどんな姿をしていようとも」と言い始めたのは、遠藤の障がいが進行して寝たきり暮らしを始めた頃、もう35年ほど前からだ。
この歌を私に置きかえてみると、
「“映画”といふかたちに込むるメッセージいかに届くやいのちゆいのちへ」
ということか…。
自主製作・自主上映を旗印にドキュメンタリー映画を創ってきた歳月も、遠藤が介助者の手を借りて寝たきり暮らしをしてきたのと同じようなものかな。遠藤のように「えんとこ」という定点をしっかり持ち、ほとんどブレることなく生き続けてきた在り様とは比べようもないけど…。
ほとんどアトサキ考えずに、映画を創り続けてきた。上映活動にも、前ノメリになりながら取り組んできた。
でも、やってもやっても空回りしているように感じて、落ち込んでしまうこともシバシバだ。
新作『いまはむかし〜父・ジャワ・幻のフィルム〜』も、集客に苦戦が続いている。けれども、上映でヴィヴィットな反応に出逢うと、俄然元気が出たりする。「創ってよかった…」と。
みっともないほどにブレまくる私から見ると、遠藤の在り様は見事なもんだ。
映画『えんとこの歌』でも紹介した遠藤のラブレターのような短歌の数々は、照れてしまう位に素直だ。そして、旅立たれた今、読み返してみると、切実感のようなものが迫ってくる。
ギリギリの処で日々を生きていたこと、「死」と隣り合わせにある「生」、「限りあるいのちを生きる」ということを、いつも心の起点にしていたであろうことを…。
遠藤にとってラブレターのような短歌は、「いのち」を振り絞るようにして歌われた、何より自分自身に向けたメッセージ、
「そうだ、それでいい、それでいい…」という呟きのようだ。
「いのちゆいのちへ」
とは、私が手がけてきたヒューマンドキュメンタリーの世界そのものを表現する言葉だとも思う。
「他人事(ひとごと)」ではなく「自分事(じぶんごと)」として映画を創り、映画を観てもらいたいと思うこと…。映画は窓というよりも鏡なのだから。
遠藤滋は『いのちゆいのちへ』という歌集のいくつもの言葉の中で今も生き続ける。
そして、
『えんとこ』『えんとこの歌』という二本の映画の中で、これからも生き続ける。
私は、遠藤と共に創った二本の映画を観てもらう旅を続けながら、遠藤との語り合いを続けようと思う。
「そうだ、それでいい、それでいい…」と、小さく頷きながら、生きるのだ。
(かんとく・伊勢真一)