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潜女の集落にて

勝又公仁彦

 伊勢クリエイターズワーケーションで、当初私が事務局にお願いしたのはたしか、以下の2つのことだったと思う。
1.伊勢の青石とはどのようなものか 
2.国崎など伊勢神宮に神饌を納めている人たちのお話を伺いたい

 ところが、新型感染症の蔓延と当方の多忙による延期を続けているうちに、時が過ぎ、実際何をお願いしているかも忘れてしまった。


 2022年度末での事業の終了が告げられたため、年度内の執行となったが、改めて上の2点につきお願いをした。

 このうち、1については、神宮を含め方々に聞いて頂いたものの、結局情報は得られなかった。産地と言われる南伊勢町でもわからないとのことで、逆に私の指摘によって役場の方の意識に上り、今後ふるさと納税の返礼品にできるかどうか、検討するとのことである。

 2については、神宮の神事に使用される熨斗鰒を産する国崎の組合長の世古與司一さんにお話を伺うことができた。お話を伺うのに指定された場所は海士潜女神社である。

 ここに組合の事務所があるようだ。海士潜女神社には以前に2度ほど訪れたことがある、海洋民としての日本人を想起させる名前の神社だ。元の社殿は海に面した鎧埼にあったが、何らかの事情で現在地に遷座したという。そのことを「日本初の高台移転と呼ぶ識者もいる」と世古さんはお話しだった。その真偽はわからないが台風が襲い津波洗う日本列島では、どこでも可能性があるだろう。


 海人潜女神社という名称には生業における男女同権の響きがある。この名前の神社はここにしかないとのことで、それも興味深い。

丹後一宮であり元伊勢の一社でもある籠神社の宮司を世襲するのは海部氏であり、日本最古の系図が残されている。海に囲まれた日本列島にはそのような海人系の氏族が広く分布している。

 海士はともかく、潜女(かずきめ)という言葉は、山育ちのせいか日常聞いたことがなかった。文献でも私が知る限りでは李健が1629年に書いた『済州風土記』を今西龍が訳した『朝鮮学報』第一巻第二号に「藿(かく 海藻)を採るの女は之を潜女(かずきめ)と謂い」とあるのを見たのだが、より古くは『延喜式』に志摩の潜女として記されているという。

 世古さんは朝鮮の鮑と伊勢志摩鳥羽の鮑は全く違うとお話しだった。朝鮮のものは緑色で、日本でもよく安い鮑として見るものだという。時代は違うが宮本常一はその著書『日本文化の形成』において「昭和五二年、済州島を訪れて海女たちの潜るのを見、また鮑をたべてもみたが、私の眼には日本の鮑とほとんど差がないのである。」と記している。

プロが見ると違うものなのか、時代が変わってしまったのだろうか。温暖化や豪雨の影響は非常に大きく、神宮に納める熨斗鰒の生産にも影響が出ているという。

 倭姫命に鮑を差し上げた伝説の海女「お弁」の子孫の家が今も残るように、分家を許さないことで古代からこの地に住み続けてきた人々であるだけに、文献に残らない伝承はないものかとお聞きしたのだが、なかなか公に伝えられている以上の話はなく、また近年の情報は表に出せないものもあるとのことだった。

 そんな中で私が特に興味深く反応したのは世古さんが何気なく発したことだった。それはお祖母さんから聞いた話で、その頃(大正くらいか)は朝鮮半島にも行って漁をしていた、ということだった。柳田國男などによる沖縄の糸満の漁師が済州島や朝鮮半島沿岸まで出漁していたという記述には過去に驚いた覚えがあったが、国崎の海士と海女たちも遠洋への航海術を持ち、また遠征する必要と気概があったということにはさらに驚かされたのだった。『済州風土記』における潜女と国崎の潜女が重なり合うような眩暈を覚えつつ、世古さんの元を辞して、鎧埼へと向かった。

勝又 公仁彦(KUNIHIKO KATSUMATA) 美術家/写真家

【滞在期間】2023年2月6日〜2月17日
http://www.kunihikokatsumata.com/

※この記事は、「伊勢市クリエイターズ・ワーケーション」にご参加いただいたクリエイターご自身による伊勢滞在記です。
伊勢での滞在を終え、滞在記をお寄せいただき次第、順次https://note.com/ise_cw2020に記事として掲載していきます。(事務局)