醜いところとか、愚痴
世の中の関心事が学歴や容姿にあるということは、そうは誰も言わないだけで周知の事実である。事実、首都圏に住む子どもたちの半分は中学受験にお熱だし、Instagramには怖いくらい同じ顔をした整形女子がずらりと並んでいる。高精度のAI画像がまざっているかもしれない。東洋経済新聞が「生き残る企業」とか「生き残る大学」とかを出すたびに各所でバズり、アイドルの熱愛報道が出るたびに悲鳴が聞こえる。残念ながらnoteにいらっしゃるような達観した方々はマジョリティではないのだ。とは云う僕も受験産業にこの身を捧げて日銭を稼いでいるし、高潔を気取りたい裏腹で甘い蜜を吸わせてもらってる、寄生虫のような人間である。
以前、大学の友人とこのような会話を交わしたことがある。
「私の学部は就職に強くないんだよね」
「え?就活に学部なんて関係ないでしょ」
「いや、あるでしょ。文構の就職実績みればわかるよ。政経と比較したらマジで全然違うよ」
「うーん。相関はあるかもしれないけど、基本的にポテンシャルがあれば就活で学部が足手まといになることはないと思うけどなぁ」
「それは強者の理論だね。実際、就活時点では学部は関係ないにしても就職後の出世競争でも結局学歴は関係するってパパは言ってたし。パパは関学出身なんだけどそれでも出世は難しいらしいよ。」
僕は「いいや、学歴なんて関係ないよ」と涼しい顔で言ってみたいものだったけれど、この瞬間にその発言をすることは、自分をさも公正平等な人間ですと善く見せるための工作みたいなものだから、かえって彼女の激情を誘うのは明確だった。仮に本心でそう思う気持ちがあったとして彼女のルサンチマンに勝てるわけもなく、僕は暗黙のうちに彼女の言説を首肯した。理想では学歴なんて関係ないと本気で思いたい僕がいたけれど、理想で飯は食っていけないのである。そもそも社会を知らぬ僕らが分母の小さな伝聞を信じきって会話を前に押し進めていることなので、意味も価値もない会話かもしれない。意気地無しな僕の敵前逃亡の記憶。もしかすると「それでも」と言って欲しかったのは彼女かもしれない。
先日、勤務先におかしな老人が訪問してきた。どうやら孫の塾選びに口出しをしているらしい。3世帯家族なのだろう。おかしいというのは、孫の塾選びを老人がしていることではなくて、老人が永遠と持論を垂れ流して事務職員を困惑させていたことだ。彼は自身の教育論をお持ちのようで、「教育とはなんだと心得る」という頓珍漢な質問をしていた。何がしたいんだって感じかも知れないけれど、正直、多少共感することはできる。勤め先がかなり授業料の高い学習塾というので有名なので、おいそれと札束2本出せる家庭でもなければ、少しくらいは働く我々の人間性だとか思想というものを見定めておきたいものだ。しかし、老人の違ったのは次の言葉である。曰く「受験産業は虚業であり、そういうものを好かん」と。うむ、耳の痛い話である。これは僕も部分的に同意せざるを得ない。実際、受験産業なんていうものが幅を効かせるために、学校側も入学試験の内容を複雑にせざるを得なくなり、そうして進学塾に通っていない子どもでは到底解くことの出来ない鬼問悪問が続々と生み出されている。算数なんて、あれは一体なんなんだろうか。なぜ代数を用いてはいけないなどというヘンテコなルールが存在しているのか。社会なんか、僕も知らない日本地理を子どもたちが平気な顔で諳んじるのだから恐怖しかない。「なんの役に立つ」という観点はその結論に至るまでの思考過程を説明しないと有意義な批判にならないためあまりしたくないのだが、それでも「なんのため?」と言ってやりたくなる。受験産業はずいぶん狂った様子である。
日本全体ではどうだか知らないが、少なくとも東京(首都圏)において、受験をしないという選択肢はほぼほぼ存在していない。僕の中学校はどんなに出来の悪い生徒でも高校やら専修学校に進学していた。実際東京都は98%が進学をしている。その構造にあやかって、受験を複雑にしている受験産業の功罪については、僕も思うところがある。
ただし、一つ言わせてほしいのは、受験業界に子どもを振り回して金を稼いでいるという側面があったとしても、現場で働く講師たちも等しくそのような思想を持って子どもに接しているわけでは決してないということである。日本の教育は、受験産業の魔の手から脱出することができないところまで来てしまっていると思う。しかし、脱皮も漂白もできないならば、現実問題として誰かは汚名をかぶさっても子どもたちのために受験のヘンテコ知識を伝授しなくてはいけないわけで。子どもも自分の進路を自由に選択する権利くらいは当然あるのだから、それを支えてやる仕事も人間も必要だろう。そうして清濁飲み込んで、割り切ってこっちは仕事をしているのだから批判されるのはある意味では当然だと思う一方で「教育論を述べろ」などという居丈高な態度で僕らパートタイムを詰問することは毛頭理に適っていないのである。「おじいさん、僕らのやってることは教育とは名ばかりの『訓練』ですよ。」と言ってやりたくなったが、彼の萎れた背中に、あの日の「学歴など関係ない」と言いかけた僕の姿が重なって硬直した。夢理想を語る時、それは一方で叶わぬことを知りながら、盲目に信じていたいという根源的な欲望が表出しているということは、この身で痛いほど経験したではないか。狂人に見えた彼と僕はその実では同じだったのかもしれない。
先ほど達観していると述べたnoteでも、結局学歴や就活について述べているものがバズったりしていて、ここにもマスの関心というものが十分反映されているなと思う今日この頃。批判しておけば免罪符になるし、この手の話題は便利である。かくいう僕もこんな話題で執筆してしまっているのだから人のことを言えたタチではない。
私が敬愛するフォロワーの方々は、こうした世俗的な話題を超越した位置で記事を書く方々である。シール集めや旅行記や、日記など、心に優しいヘルシーな文章を提供している方々だ。一言に愛してやまない人々だ。こんな体たらくだが僕もそっち側に行けるようにエッセイなどを書いてみるのであった。だからエッセイが好きなのである。