いじめっこが変わることって実際にはあんま無い。
この間の金曜ロードショーで「聲の形」が放映されましたね。映画を見ながら思い出したのは自分がちょっとだけいじめられていた中学生時代のこと。
小学校で運動してて、健康診断でのローレル指数がギリギリ標準でもう少しで太っているに達しそうなぽっちゃり度でした。
中学校に入ってあんまり動かない部活に入ったらあれよあれよと1か月で10キロの体重増加!笑っちゃいますよね。太ってて明るくない女子って男子から虐められる格好のエサだったんです。どん底中学生ライフの始まりです。
デブで暗い割にテストの点数がそれなりに良かったんですよ。テスト返しの時に私の点数がたまたま見られて(クラスで最高得点だったテスト、たぶん数学)、めちゃくちゃでかい声で「俺あいつ嫌い笑」「俺も笑」って言われたときはシンプルに死にたいって感じでした。
さて、嫌な思い出話はこの辺にして、タイトルの内容です。
社会人になって、中学卒業後の所謂「地元組」の皆さんの現在の話を聞くことがあったりなかったりするのですが、あの頃私の心を言葉でグサグサ指してきてた人達って今も地元であの時と同じメンバーでつるんで遊んでるんですよね。
あの時との変化、ほとんどないように感じる。
結局変わらざるを得ないのは弱い者の方。
「聲の形」のようにあの時の自分はなんて罪を犯してしまったのか、という風に気が付くなんてほぼありません。ていうかもう覚えてないんじゃないですかね、私のことなんて。理不尽だなって思います。
弱いから淘汰されて、その後の変化を求められる。いじめた側がどういう経緯があるにしろ非に気が付き、自分から変化していく、なんて私は見たことないです。だってその場のウケる発言に過ぎないですから。ウケずに真に受けてる人間がマジョリティですから。
行動や言動って、言い手、受け手、見ている人それぞれで違って見えているんですよね。あの時の私はそれに気が付かなかった。
だけど折角変われたんだし、むしろあの時期にひたすら無言で耐えるメンタルを頂いたと思います。
たっぷりの皮肉をこめて。「本当にあの時はありがとう。」
絶対自分の幸せをつかんでみせます。
いつかざまあみろ、って思えるように。
映画を見て思ったことと自分勝手で小さな決意。ポジティブ発信のnoteのはずが全然違う内容ばかりですが最後まで読んでいただきありがとうございます。また会いましょう👋