鉄道の魔力
鉄道が好きだ。
なんか、物心がついた時から好きだったし、毎日通勤で乗る電車は好きにはなれないけど、いつもと違うところへ行く電車、遠くへ行く電車、速い電車は好きだ。遅い列車だって、路面電車とか好きだ。
電車と書いたが、ディーゼルカーや客車列車も好きだ。むしろ、普段見ない分、それらの方が好きだ。
鉄道のなかで鉄道車両だけが好きなのかというと、そうとも言い切れない。
思わぬところで、二本の並行する鉄のレールが埋まっているのを見つけると、なぜか嬉しくなる。
甲武信ヶ岳の西沢渓谷登山道にも廃線跡があって、あれは塩山駅から続いていた西沢軌道というものらしいが、所々に廃レールがのこっていたのを見つけたときは嬉しくなった。
レールが残っていなくても、奥多摩の廃線跡と思われるような空き地をみつけるだけでも、少し心が動く。
日本中にある舗装道路でも、路面電車のレールが埋まっているのを見ると、ウキウキしてしまう。
何気ないコンクリートの柱が架かっていると、あれがモノレールのレールならばと思ってしまうことすらある。
あれは、どういう感情なんだろうか。
もちろん、鉄道車両も好きだ。
鉄道車両ならばなんても好きかと言われると、興味や好みの対象にはむらがある。全て平等に好きというわけではない。
やっぱり、地味な各駅停車の車両より、特急車両、特別な車両に興味が向いてしまう。
鉄道車両といえば新幹線車両が工学的には最上級なのだろうけど、東海道新幹線は今やN700系列の画一化された車両しか走っていないから、どんなに高性能な車両でもいまいち興味は湧かない。
同じレールの上を、下等で鈍足な普通列車と、上等で高性能な優等列車が走るからこそ、他より秀でている優等列車の車両に興味が湧く。
鉄道車両は生まれ持って、その役割も性能も決められているのだから、これは出生差別を喜んでいることになる。
しかし、人間というのは理性で平等が正義だと信じて謳いながら、どこか心の奥底で差別を積極的に受け入れて、下等な人間とは別の上等な人間を作って祀り上げて喜んでいるのではないか。
天皇なんてその最たるものではないか。
この自由で何を言っても罰せられない日本で、プーチンや金正恩を信奉している人間が少なからずいるのだって、自分を基準にして上に人を置くか下に人を置くかの違いはあるけど、似たようなものだろう。
昨今の日本では鉄オタと呼ばれる人たちの所業が広まり、鉄道が好きだとは公言しづらい風潮になっている。
それより前から、元々鉄道好きは「鉄ちゃん」という蔑称があったから、地位の高いものではなかった。
実際、一度だけJRが臨時で運行するSLに乗ったことがあるが、その車内でみかけたマニアらしい乗客の癖の強さは独特なものを感じた。
マニアの仲間同士で話す様子も傍目から見て独特だったし、ボックス席の指定券を買い占めて空の座席を独占しているマニアも一人や二人ではなかった。
あの人たちと同じようなものだと見られると、やはり心外に思う。
であるから、鉄道マニアが粗相を犯したりすると、匿名の世間から過剰に叩かれてしまうのも解る気はする。
純粋に彼らが許せないだけではなく、自分はあれとは違うのだという、確証が欲しいという心理はどうしてもある。
「自閉症や知的障害者が電車を好きになる理由」でググると、それなりに情報が出てくる。
鉄道マニアに「そういう」ひとが多いと感じている人たちは多いのだ。
これらで挙げられている理由が真実であるかはわからない。
むしろ、私は「自閉症や知的障害者が電車を好きになる」という事実の方を疑っている。
今週、芸備線廃止検討のニュースが流れた。
芸備線の実態について、私にはネットに溢れる知識以上のものはないのだが、芸備線と同じ中国地方内陸部の限界ローカル線である姫新線や因美線の閑散区間をつい最近に乗ったので、およその推測はできる。
今や芸備線を含むJR西日本の閑散路線は、車長が18m級の短い車両たった1両で、1日に5往復程度(正確には平日6本、休日5本)しか運行されていない。
1日5往復しかないと、沿線の利用者は乗りたい時間に乗れない。
一度切りしか乗らない旅行者であればいざ知らず、普段から繰り返し利用する沿線利用者にとっては鉄道のダイヤに合わせて行動するのにだって限界がある。
休日は早朝の便が過ぎたら次は7時間後ですなんてダイヤだから、使い道は大きく制限される。
いくら利用者が少ないと言っても、昼間のダイヤに2時間以上の空きがあるようであればその少ない利用者すら見放すだろうし、現実的には1時間に1便ペースのダイヤを維持できないのであれば、その鉄道路線は終わりなのだろう。
芸備線に使われる車両の定員は一般のバスと同じ程度の数になっている。しかも、その程度の輸送量すら青春18きっぷのシーズンでもなければ過剰で必要とされていない。
逆に青春18きっぷのシーズンになると乗客が押し寄せて小さい車両は大混雑になるが、半分ただ乗りのような青春18きっぷの乗客のために車両を増設なんてするわけがない。
それでも、青春18きっぷは毎年3回、1回ごとに5週間発生するから、その度に普段使いをする残り少ない沿線の利用者は理不尽な我慢を強いられる。
おそらく、青春18きっぷにはローカル線の主要顧客である学生が利用しない期間のローカル線利用を促す目的があるのかもしれないが、安い切符で目一杯乗車しようとする青春18きっぷの乗客が押し寄せてもローカル線やその沿線に大した利益などもたらさないし、毎年限度を越えて混雑するのが常態化すれば、ますます沿線の利用者は離れてしまう。
さらに、JR西日本の閑散路線では、山の中の路盤が弱い箇所になると25km/h制限がかかって徐行をしてしまう。
これは保線工事をしているわけではない。
保線をしなくて済むように、線路や路盤や周辺の地形をなるべく消耗したり破壊せずに現状を少しでも長く維持するために徐行をするのだ。そんな区間がJR西日本の閑散路線では結構な割合であるので、速達性についてもバスや自動車にかなわない。
そもそも、こんな施策をしてもいずれは保線工事は必要となるだろうに、その際に保線工事をするつもりはJR西日本にあるのだろうか。
なお、このような徐行をマニアの間では必殺徐行というらしい。
こうして芸備線の状況を挙げていけばわかるように、もはや沿線の利用者からすれば交通機関としての実用性は失われている。
沿線住民の交通機関として使えないのであれば、観光路線に変革する案もあるが、京都の旧嵯峨野線のように主要な都市から近ければ廃線跡をトロッコ列車専用の観光路線にするような施策もあるけれど、芸備線のように主要都市から隔絶された場所にある路線では、何をしても集められる観光客の数にだって限界がある。鉄道を維持するほどの観光客は見込めないだろう。
いまや芸備線をはじめ、その近隣にあるローカル線も、廃止しないから運行しているだけ、という状態なのだと思う。
率直に言って現在の芸備線の廃止検討区間が廃止になっても、代替のバスさえ運行されれば、実用の面では誰も困らないのだろう。
しかし、廃止に反対する政治家がいるという。
誰もが「やっぱり廃止だよね」と、納得するわけではないのだ。
しかも、ニュース動画を見たら、これまで何もしてこなかったJR西日本を責めていたが、これってJR西日本の責任か?
交通機関の存廃でこれほど議論が紛糾するのは鉄道くらいのものだろう。
道路なんて人知れず廃道になっているものが無数にあるが、ほとんど誰も気にも留めないし、空港だってすでに廃止されているものもあるが、これもやはり誰も反対の声など上げずに、静かに廃止にされてしまう。
バス車両が更新されて古い車両が廃車になっても誰も気にも留めないが、鉄道車両が廃車になるとなれば、その車両の最後の運行には「葬式鉄」マニアが集まるし、葬式鉄にはならない私でも少しは気になってしまう。
廃線ニュースが流れれば、私は現地に行くような手間をかけはしないし、涙を流して悲しむことも無いけれど、多少の寂寥感を感じる。
鉄道の廃止に反対の声を上げている人は、政治家の中でも知事、副知事の名前があるから、別に鉄道マニアの自閉症というわけではないはずだ。
おそらく、鉄道以外の話であれば、冷静で論理的な話が通じる人たちのはずである。
逆に、最近開業した宇都宮LRTなどは、計画段階から政治家も含めて反対意見が根強くあった。
宇都宮市街地の道路混雑状況や、宇都宮の近郊に工場地帯を抱える状況を考えれば需要の面では申し分はないし、サステナブルだSDGsだと叫ばれる現代においてCO2排出の少ない鉄道の開業を、そんなに強く反対する理由もないように思えるが、それでも反対運動は根強くあったし、彼らは今でも宇都宮LRTの延伸計画に反対をしている。
歴史を調べれば、すでに東海道本線が飽和して東海道新幹線が計画された際も、反対運動が強く起こったらしい。いまの東海道新幹線の運行状況を考えれば、反対なんてとんでもない話だが、当時反対運動をしていた人たちは大真面目だったのだろうし、宇都宮LRTに反対している人たちだって大真面目なのだろう。
中にはS県の知事のように、隣国からの指示なのか、日本の繫栄自体を嫌っているのか、明らかに偏った政治信条で鉄道の開通を全力で邪魔するような輩もいるが。
そのS県知事が大好きな隣国なんて、高速鉄道を自力で建築できる技術を手に入れたら、採算度外視で高速鉄道網を国内に構築して、海外への輸出も始めた。
「採算度外視」というのがポイントで、なぜ人類はそこまでして鉄道を敷きたがるのかは人類共通の謎だろう。これは、政治家個人の資金着服とか賄賂という程度では説明できない現象のように思える。
思うに鉄道に心を惹かれてその存在に心を揺り動かされるのは、別に自閉症とか発達障害とかではなく、人類共通の本能なのではないか。もちろん、個人差は大きくあるのだろうけど。
でなければ、芸備線なんて実態を知れば誰もが廃止に首肯するであろう路線においても、反対の声が上がるとはおよそ考えにくいのだ。
鉄道は人を狂わせるように思える。
一般的な大人が鉄道に興味を持たないのは、本当に興味のない人もいるのだろうけど、大人になれば興味の対象が増えるからいつまでも鉄道にばかり興味が向けられないのが実態ではないか。
鉄道というやつは、いくら我々が鉄道を愛しても、鉄道は我々に乗車券が示す場所まで運んでくれる以上のことはしてくれない。そんな鉄道にいつまでも興味や愛着を持ち続けるには、他に興味を移さないか、あるいは過剰な執着が必要だ。
しかし、新幹線ホームに入ればマニアではなくても嬉しそうに新幹線と自撮りをしている大人をたくさん見かけるから、興味がないというより興味を忘れた、あるいは優先度が下がったという方が正鵠を得ているように思える。
それでもあくまで私は鉄道になんて興味がないと言い張る人がいるのであれば、それは、自分は子供ではないと確信を得るために興味のない振りをしているか、鉄道マニアと呼ばれる人たちと俺は違うんだと距離を置きたいからではないか。
鉄道に関しては普段は忘れているだけ、あるいは優先度を下げているだけだから、ある日、鉄道の存廃なんて話題が出ると、自分が実質的に被る損益なんて大したものではないはずなのに、突然燃え上がったように感情的な議論が一般人からも噴き出してしまうのではないか。
思えば、鉄道というのは人類史上において、移動という点で最大のエポックメイカーであったはずだ。むしろ、「移動という点で」を抜いたとしても人類に史上最大の衝撃を与えたと思える。
鉄道の営業が始まったのは1807年、日本での鉄道開業は1872年。
現代では、世界のどこかで発明開発されたものが65年も遅れて伝わるなんてありえない時代になったが、当時ではモノの伝達も遅かった。
むしろ、鉄道があらゆるものの移動を早め、実用的な距離を短くしたと言っても良い。
鉄道より前の最速の移動手段は馬であったと思われる。
馬はサラブレットであれば最大で70km/h近くで走れるらしいが、長距離の移動ではせいぜい5~6km/hであるらしい。
幌船ならばもう少し速度が出たであろうが、移動は海上に限られるし天候にも左右されて危険も多い。
人類にとっては何千年もそのような交通事情が当たり前だったのに、ほんの200年ほど前に突然、地上を敷かれたレールの上だけとはいえ、馬の何倍もの速度で何倍もの距離を走れる鉄道が登場したのは、その瞬間に立ち会った人たちにとってはとんでもない衝撃で、夢の移動機関が登場したも同然であっただろうと思う。
初めて鉄道に出会ったときの感動は、最近(といっても、もう数十年前だが)であればインターネットや携帯電話の登場ですら比較にならないほどの衝撃だったのではないか。
現代を生きる私たちに、鉄道の登場に立ち会った人たちが経験した衝撃の記憶はない。
産まれて物心がついた時には、鉄道はあるものだった。
しかし、私たちのどこかには、鉄道に初めて出くわした人たちが経験した記憶や感情がインプットされて保存されているのではないか。
誰もがみな、芥川龍之介の短編「トロッコ」の主人公である良平を、心の中に飼っているように思う。
まるで、鉄道に魔力があるように。
これは、別に何かしら危害を加えられた記憶があるわけでもないのに、昆虫や蛇などに恐怖を感じるのと同じような現象のようにも思う。
宇宙は鉄を作るためにある、という説がある。
太陽のような恒星が水素を全て核融合させて燃え尽きると、最終的にできるのは鉄なのだそうだ。
宇宙にある物質というのはすべて鉄になっていくものらしい。
鉄路というものには、宇宙の目的に通じる何かしらの意味が込められているのかもしれない。大袈裟だけど。