微生物とサバルタン
私たちと、私たちの周りに住んでいる、存在している生物、植物、動物。彼ら「おとなりさん」たちのことをケアすることができているだろうか。「私たち」という言葉の中に、Non-human(人間ではない存在)は含まれているんだろうか。
私たちの身体は微生物の生態系だと言われています。腸内細菌をはじめとする何億という細菌や微生物が私たちの体の中に棲み、私たちが生き延びるために必要なはたらきを行なっています。今まで彼らが気持ちよく生きることができているか、ケアの視点から考えたことは正直ありませんでした。
今週のWeのがっこうのテーマは、「私たちと自然」。自然の中で、私たちはNon-humanな他者たちと一緒にどのような関係性を描くことが可能なのかを考えてみる時間でした。
「私たちの周りに存在するおとなりさん達が気持ちよく生きることができるために、私たちは何ができるか?」
その問いに対して自分が考えたことは、「人間を微生物のためのアパートとして考える」というアイデアです。一つずつの微生物を命を持った存在として認識すると、私たちは何億という微生物たちを私たちの体の中で「ホストしている」ということができると思います。
そう微生物・細菌の視点から考えたときに、私たちの身体は微生物が棲みつくアパートメント・ホテルとして考えることができるのではないか。
「微生物さん、いらっしゃい」と彼らをゲストとして迎え入れ、彼らにとって心地よい環境に自分の体内環境を作り変えるということが可能になるのではないか。
この考えのもとで、ホストとして微生物さん達にこんなことができるかなと考えてみた。
・体内と体外の出入りをスムーズにするために土に触れる、食べる→外の微生物と体内の微生物のお見合いをしてみる。
・「殺菌」ではなく、菌の多様性を増やすために過度に殺菌効果のある洗剤やボディーソープなどを使わない。
・腸内細菌の活動が活発になったり、多様性を上げるために、食べるものを変えてみる。農薬や肥料など微生物にとって良くないものは食べない。
こんなアクションを、自分の身体のためにではなく、微生物の方々のために行なってみる。微生物の環世界において、「良い・悪い」とは何を意味するのか?何を基準に自分は微生物が良いと思うはずだと判断できるのか。
同じグループにいた方が、「金曜日」を「菌曜日」に変えるアイデアを提案していました。「花金」は私たちが自分自身のために良いことをする日ではなく、「花菌」として私たちの身体の中で働いている菌の方々を労う日、菌の方々を大切にする日として捉えることができるんじゃないか。
私たちが自分自身を考えるときに、一人の人間である自分自身を最小単位としてしがちです。しかしその境界線を異なる形でフレーミングし直して分解すると、自分は他者にとってのアパートにもなりうる。
「微生物のための人間」という存在になることは可能なのか。
そう考えてみることは、人類学者のDonna Harawayが「人間はコンポストになるべきだ」と語っていることとも繋がりうると思います。インタビューの中でハラウェイは人間を意味する"Homo"(ホモ・サピエンスなどのホモ)という接頭語をベースに、人間自身の存在を考えることについて以下のように語っています。
「‘homo-’の根っこにあるものはなんというか……、わたしは人間例外主義のことを言うために‘homo-’を使うんです。つまり、経験する偶発事がどんなものだろうが、お構いなくその〔人間という〕カテゴリーに回収してしまうような、根本的に男らしさに基づいた人間の単独性ですね。 ‘homo-’の根底にあるのは、言語や民族性、肌の色がなんであろうがことごとく一緒くたにするヨーロッパ(Euro)ですし、基本的には、そこにあるあらゆる言葉の響きからして植民地化の用語なんですね。わたしは‘homo-’にそういう役割を担わせています。
翻って、‘homo-’と同じぐらい簡単に、いや実際‘homo-’よりも簡単なんですけど、土の人・・・=腐植・・(humus)や土壌のほうへ、大地に属する生物/非生物の作用である多種共生(multispecies)のほうへ、つまり大地のなかにいて、大地の一部であり、大地のために存在する、地に足のついたものたち(the earthly ones)のほうへ、人間的なもの(the human)を向かわせることもできます。腐植は土壌と堆肥のなかでつくられるものですし、それは大地を育むことになる生物のためにあるものです。」
人間中心的ではなく、大地に属するものとしてのアイデンティティを再び取り戻していく。ハラウェイは、人間は堆肥として土に還り、大地を育むための存在としてあるべきだということを語っています。
「コンポストとしての人間」という思考を発展させると究極的には死に直結するのではとも思います。前のnoteで土に還って何万年かしたら、自分たちも有機物の資源として石油のように掘り起こされて使われるかもしれないという内容を書きました。それでは自分は土から掘り起こさないでほしいという「遺言」を残すことによって、何世代先の子孫とも関係性を持つことができるのか。「子孫」の範囲を、今後の世界に残り続ける存在達まで拡張すると、自分の死後に身体を微生物たちや生き物のもとに戻したいと考えることもまた違った関係性になりうるのではないか。チベット族で行われている死者の遺体をハゲタカに分け与える鳥葬といった風習とも繋がるかもしれません。
同時に微生物という今まで意識したことがなかった単位・スケールの他者を考える中で、私たちの身体を考える上で微生物たちは植民地主義理論におけるサバルタン (Subaltern)と繋げることができるのではないかと考えました。
「サバルタン」(subaltern)という言葉は、人文社会科学の領野で「従属的な立場にある個人や集団」を示す学術的な専門用語として使われている。
(牧 93)
植民地主義の歴史において、「白人・キリスト教徒であること」などのアイデンティティが「人間らしさ」と深く結びついてきた中で、原住民族の人々やアフリカ系の人々など植民地支配をされた人々は"Subaltern" (Sub = 下の、Altern = その他、別の)として「人間ではない人々」や「存在しない人々」として扱われてきました。"Subaltern cannot speak" (サバルタンは喋ることができない)という命題は、そうした人々が「口答えさえできない無力な人々」(牧 94)として扱われてきた歴史を示しています。植民地支配を行う支配者に対して、発言をしたとしても聞かれることがない。
これに対して脱植民地主義理論の中では、歴史的に抑圧され沈黙させられてきた人々が自分自身に対する主権や独立を獲得していくプロセスなどが考えられています。
ただこの概念を、人間だけでなく今まで存在すらも認識されてこなかった生き物、存在たちまで拡張させたときに、真っ先に私たちの身体の中に存在している微生物たちをサバルタンとして捉えることが可能ではないかと思います。微生物は体内の化学反応や体調といった形で様々なメッセージを私たちに送り続けています。しかし人間という一つの大きな単位が基本となり、それよりもさらに分解されなくなったことで、私たちの中に住む微生物の存在は無視・軽視されています。こうした構造の中において、微生物の方々は「抑圧された存在」と言えるのだろうか。
そうしたサバルタンとしての微生物ではなく、ケアをしあう関係性にどうなったらなれるのか。
人間を中心とした想像力の元、人間の世界のパートになる存在として微生物を想像するのではなく、それぞれに多元的な環世界をもつ存在の集合として認識するかで、私たちの身体が持つ意味は全く変わってきます。
彼らの存在を無視し、人間である自分自身の環世界にとらわれることは、彼らの世界を破壊し、消し去ることに他ならないのではないか。
こんなことを考えて、微生物の方々とより異なった関係性を持つために、チャレンジを始めます。それは大きく分けて3つ。
1. 微生物の方々のことを学ぶこと。
2. 微生物の方々に対して感謝の手紙を書くこと。
3. 微生物の方々をケアする日を作ること。
こんな実験をしてみる中で、自分自身にどんな変化が起こるのかを観察するのが楽しみです。
こうした取り組みをすることは、抑圧された・無視されてきた微生物たちの存在の仕方を変化することになりうるのか。問いは尽きません。
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