公園
子供の頃は砂場遊び、ブランコ、かけっこ。大人になってからはダンスを踊る、ベンチにただぼーっと座る、ただ横切る。
ふと、自分は公園というものを定型文のような使い方をしてこなかったと、文字にして思う。いや、みんなそうか。それでも公園という場所は、避けては通れないものである。何かしら誰の記憶の中でも公園にまつわる出来事はあるだろう。今回のコーディネートはちょっと個人的に不思議だった。当たり前、と思っていた景色はどうやら違ったようだ。それを気づかせてくれたのはアーティストだった。見落としていたものを一人のパフォーマンスを通して改めて気付かされるような体験となった。
PARADISE AIRに4月に滞在していたエミリア・ジュディチェリはショートステイ・プログラムの発表の場所に松戸駅の西口にある公園を選んだ。
彼女はダンサーでもあり、振付家でもある。2017年2月のスイスで行われる8時間にも及ぶパフォーマンス作品のために、今回そのリサーチも兼ねて公園で「テスト」を行った。新作と同じく、今回も8時間。なぜ8時間かというとフランスでは8時間のサイクルというものが理想とされているらしい。睡眠に8時間、仕事に8時間、プライベートに8時間の合計24時間というものだ。それを聞いた時、なるほど、なんと効率のよい考え方だろう、と妙に納得してしまった。24時間をそんな風に区切るなんて思いもつかなかった。
エミリアは今回の試みを「コンサートでも、ショウでもありません。これは、西口公園の「テスト」です」と語っていた。公園にある木や砂や鳥たちのように、ダンスや音楽は共生しえるのか。 西口公園という公共空間で、ダンスや音楽はどう存在し、その場の人々はどう反応するのか。そんな公共の空間で起こる数々の出来事を身体に刻んでいくような意気込みだった。彼女自身も、松戸や東京で経験した出来事を身体を通して今日は踊っている、と「テスト」の最中語っていた。
このパフォーマンスの数日前、僕が千駄木の公園でここ3年位続けている「千駄木ダンス」という活動に彼女を誘ってみた。広場でその日のダンスを作って踊るという簡単に書くとそんな活動なのだが、かれこれ100回ほど続けていてもはやライフワークのようになってきた。その日は「GAGA」と呼ばれるイスラエルのダンスのメソッドで身体を緩めて、それからダンスを作っていった。
4月の半ばというのに汗ばむような天気で気持よく身体を動かしてすっきりとした。エミリアは公園の名前を知りたがり、「初音の森」と教えた。とても良い場所だと気に入ってくれた。
夜にメールがあり、「初音の森」を調べたら面白い記事をインターネットで発見した、と送ってきてくれた。それは恐らく海外向けのガイドか何かのページだと思う。英語でびっしりと、とある女性が公園について書いている。
その女性は阪神大震災を経験して、その後東京に住んでいる。小さいころ経験した震災の状況が細かく書かれていた。そして、大人になり彼女は夫と谷中を散策していた時に「初音の森」を見つける。「初音の森」は実は防災広場という役割があり、区営のスポーツセンター跡地が住民のための防災公園「谷中防災広場 初音の森」に生まれ変わったそうだ。
そのことを知り、彼女は自身の震災の記憶とその場所の重要性を多くの人に知らせるべく、きっと記事を発信したのだろう。海外からの滞在者やもちろん日本の住人だってこの場所を知って、何かがあった時はこの場所を思い出して避難して欲しい、と。そして、この場所の重要性をもっと知らせるべきだ、とも。谷中は道も狭く、住宅が密集している古くからの町並みだ。地震や火災が起きた時に避難できる場所こそが「初音の森」なのだ。
このメールを見て、公園というものを僕は、辞書で引いたかのようなありふれたものとして捉えていなかった、と感じた。頭の中では確かに避難場所としての公園というおぼろげながらの認識もあった。地震のほぼないフランスからやってきたエミリアは、公園についてどう考えているのかが少し気になった。雑誌などでみるフランスの公園は絵に描いたような憩いの場のイメージだ(それはもしかしたら表面的なだけかもしれないが)。日本もその面もあるが、反対に緊急時の避難場所となる。その二面性を知ってどう思ったのだろう。
西口公園の本番の日、彼女は本当に朝から晩まで公園で「テスト」を行った。松戸で活躍をするミュージシャンと一緒に行いたいという希望から、即興で彼らもエミリアと同じく朝から晩まで音楽を奏でていた。
西口公園はスーパーマーケットにほど近いことと、休日では缶ビールやワンカップ片手に将棋を行っているおじさんたちもいて、なかなかカオスな状況であった。一人の酔っぱらいは、ずーっとこちらに絡んできてそれはそれは大変だったのだが、話を聞くとこれまでの人生を語ってくてたり、ボクシングを教えてくれたりと、それはそれでその「人」が浮かび上がってきて面白い経験でもあった。
とある人は、自分が持っている本をエミリアにたくさんプレゼントしたり、将棋をやっていたおじさんが突然一緒に踊ってもいいですか?と話しかけて踊り始めたりして、エミリアの存在が確実に公園の中で一つの風景のように作用していた。一緒にダンスを踊る人、公園に置いたオルガンを弾きながら「ミュージカルが好きなの、踊ってるところが見たいからもっと踊って!」と酔っ払いながらも笑顔になる人。ほんとうに様々だ。
ただ、公園は楽しいだけではない。今こうして話しかけている人の中にも個人の状況はさまざまだ。生活だってもしかしたら苦しいかもしれない、なにかつらい思いを抱えているかもしれない。公園に集まっている私たちは社会に生きている。だからこそそれぞれの事情もある。今日はその中のほんのすこしの時間。一日を通して起こった出来事がまたしても私のなかの「公園」というものの認識を揺さぶられた。
人の営みはもちろん奥深く、ひと言では片付けることは出来ない。私の知らない社会はまだまだたくさんあって当然だし、知っているつもりになっていることだってあるだろう。
今回、エミリアの「テスト」を通じて私自身も考えさせられることが多かった。「公園」という場所自体ももちろんのこと、そこを通して見えた人との関係や周りの状況など、ひと言ではもちろん言い尽くせない。でも、今日は彼女の存在によってこの場にいた人たちは少なからず普段とは違う存在を感じ、見つめ、興味をぶつけたり、静かにその時間を見守ったり、8時間の中で多くのものを引き出したように感じた。私が見落としているものを、何気ないと思っていたものを、彼女がまっすぐに見つめてそれを目の前に表してくれた。
「テスト」のあと、エミリアは熱海、静岡、京都、広島、大阪を回って帰国前にまた松戸に寄ってくれた。多くの人に出会って、親切にしてもらって、本当に私はラッキーだと言ってたくさんのおみやげ話を聞かせてくれた。帰り道、また西口公園に行ってみようと僕が言って、一緒に行ってみた。約一週間前に行われたパフォーマンスの場所では今日もあの日と変わらずおじさんたちは将棋をしたり、木陰で休んでいる人や遊んでいる子どもたちがいる。ちょうどGWのさなか、何気ない日常というもの言葉がぴったりのあたたかな陽気だ。
来年、今回の経験を通して彼女は「テスト」ではなく本当に8時間の演目を完成させる。願わくば今回の経験がどのような形になって本番の舞台に現れるのかこの目で確かめに行きたい。
西口公園を通る度にあの日感じた感覚を思い出す。公園という場所で出会った人との一瞬の時間はエミリアによってきっと交わることがなかった人と引きあわせてくれたのだから。これから私のやる仕事はこの「社会」をきちんと観察しなければいけない。何が起こっていて、今何を考えるべきなのか。私も学ばなければいけない。そんな、公園の8時間。
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