Yardbird:アメリカ ミズーリ州カンザスシティで産まれた一人のサックス奏者

 Jazzの著名なサックス奏者の一人にCharlie Parker (チャーリー・パーカー)がいます。
 バンドリーダー、作曲者として活動しジャズのジャンルの一つ、"ビバップ"の発展に大きく貢献しました。
彼は"Yardbird (ヤードバード)"や"Bird (バード)"という愛称で多くのジャズ音楽家たちに愛され、ニューヨーク・マンハッタンにある老舗ジャズクラブ"Bird Land"の店名にも彼の愛称が使われていることからも解る、ジャズレジェンドの一人です。

 今回の記事では彼の作品や生い立ちについて纏めてみたいと思います。

サックスを始めたころ

 Charlie Parker Jr. (チャーリー・パーカー・ジュニア) は1920年8月29日にミズーリ州のカンザスシティで産またアフリカにルーツを持っているアメリカ人です。
 11歳でサックスの演奏を始めて、14歳で学校内のバンドに参加しました。
 1930年の半ばに同じジャズサックスプレーヤーのPaul Desmond (ポールデスモンド)と共に、週3,4回、一日15時間練習したと語っています。

 学内でのバンド活動を経て、Count Basie (カウント・ベイシー)、Bennie Moten (ベニー・モテン)らの影響を受けたチャーリーはカンザスシティの地元バンドでの演奏を始めました。

Count Basie

Bennie Moten の1929年カンザスシティでの演奏

足元で起きた破裂音

 1936年カンザスシティのReno Clubでジャムセッションに参加したチャーリーは曲のコードが変わる箇所を間違えます。
 そのセッションをしていたカウント・ベイシー・オーケストラのドラマーJo Jhones (ジョー・ジョーンズ) に「セッションから出ていけ。」という意味でシンバルを足元に投げつけられます。
 これに奮起したチャーリーは文字で語れないような努力を払い翌年にリベンジ演奏を果たします。

Jo Jones ドラムソロ


 ジョーは当時のチャーリーにとっては格上のバンドで活躍する凄腕ドラマー。彼からジャムセッションの場で演奏中にシンバルを投げつけられる。これがどれほどの衝撃だったか。
 ジョーにとってもシンバルはとても高価なものであるはず。
 国は違いますが映画「上を向いて歩こう」ではジルジャン(シンバルの事)を巡って大人同士の殴り合いが起きる様子が描かれています。
 彼らの音楽に没頭している様がうかがえるストーリですね。

楽団への参加

 1938年にピアニストJay McShann (ジェイ・マクシャン)のバンドに参加。シカゴ、ニューヨークなどへのツアーの他、初のレコーディングにも参加を果たしました。

Jay McSchann Orchestra featuring Charlie Parker - St. Louis Mood
マクシャンとチャーリーが参加した音源

ニューヨークへの移住

 1939年にチャーリーは活動の場を広げる為にニューヨークへと移住します。
 当初かれはピアニストのArt Tatum (アート・テイタム) が出演していたJimmie's Chicken Shack (ジミーズ・チキン・スナック) で週給9ドルで皿洗いの仕事に就きます。
 一方この移住を決意する数年前からアメリカで不景気が続き、ニューディル政策が施策されていた時期。
 特に37,8年のでは大きな不景気に見舞われていて、チャーリーがニューヨークへ移住したのは、なんとか生活を続ける為に選ばざるを得なかった少ない選択肢の内の一つだった可能性も十分考えられます。
 1939年はニューヨークで万国博覧会が開催された年でもありました。

Art Tatum -- Yesterdays

全白人に対する演奏が記録に残る。

 1940年にカンザスシティで行われたフレリィランド・パークで行われた夏フェスで、ジェイ・マクシャンのバンドに参加。
 全白人の聴衆に向けて演奏したという事実が残っている。
 全白人の聴衆に向けての演奏が記録されている事から、当時の肌の色での差別が伺えます。

 1942年にパーカーはマクシャンのバンドを離れます。
その後、Earl Hines (アール・ハインズ)と1年間演奏しました。

Earl Hines Trio - Bernie's Tune

 アールのバンドにはDizzy Gillespie (ディジー・ガレスピー)が参加していました。

Dizzy Gillespie - Groovin' High

 1942 年から 1944 年にかけてアメリカで行われた音楽家連盟によるストライキのため、この期間は事実上録音はほとんどに残されていません。
 パーカーはマンハッタンのアップタウンで演奏するようになります。
 この時期を共にした音楽家はガレスピーの他に、

ピアニストのThelonious Monk (セロニアス・モンク)
ギタリストのCharlie Christian (チャーリー・クリスチャン)
ドラマーのKenny Clarke (ケニー・クラーク)がいました。

Thelonious Monk - In Walked Bud

Charlie Christian With Dizzy Gillespie & Thelonius Monk - Live At Minton´s Playhouse 1941

Kenny Clarke - Bebop

チャーリーが演奏していた日

 ミュージシャンズ ユニオンがすべての商用録音を禁止した影響によって、ビバップ初期の録音は後世にほとんど残されず、限られたラジオ放送がある程度で、ビバップミュージシャンは認めらるまでに苦労しました。
 録音禁止が解除された1945年6月22日にニューヨークで、パーカーとディジー・ガレスピー、マックス・ローチ、バド・パウエルとのコンサートとライブ録音を行いました。
 この録音がジャズの世界に大きな影響を与え、Bebop はすぐにミュージシャンやファンの間に瞬く間に広まりました。
 アメリカの日付の1945年6月22日は、日本では沖縄戦の終了である1945年6月23日。その録音を今聞けることはジャズ史に向き合いながら当時のアメリカ合衆国・大日本帝国の関係や連合軍・日系の442部隊など戦争への考えが頭を巡ります。

Charlie Parker, Dizzy Gillespie - The Legendary Town Hall Concert New York 1945

新たな録音


 同年の1945 年11月26日、パーカーは「史上最高のジャズ セッション」として売り出されたCharlie perker`s Ree Boppers (チャーリー・パーカーズ・レボッパーズ)として録音をしました。
 サイドマンとして、ガレスピー、マイルス、カーリー・ラッセル、マックス・ローチらを起用しました。

トランペットにギレスピーとMiles Davis (マイルス・デイヴィス)

ベースの (Catherine Russell) カーリー・ラッセル

ドラムの (Max Roach) マックス・ローチ

 このセッション中に録音されたトラックには、「Ko-Ko」、「Billie's Bounce」、「Now's the Time」などがあります。

Charlie Parker - Koko

Charlie Parker - Billie's Bounce

Charlie Parker - Now's The Time

 1952年にギレスピと共にアルバム Bird and Diz (バード アンド ディズ) をリリース。

 この録音に参加しているのはビッグバンドのリーダーとして名をはせたBuddy Rich (バディ・リッチ) 好きな私は、クレジットで彼の名前を見つけて思わず「おぉ!!」と声を出してしまいました笑

バディリッチ・ビッグバンド

チャーリーと弦楽器

 チャーリーはクラシック音楽で培われた弦楽器演奏とJazzの融合を願い続けていたというストーリーも残っています。
 その録音は1949年に行われました。
収録曲は以下の六曲で、現在ではどれもジャズ・スタンダード曲として親しまれています。
・Just Friends
・Everything Happens to Me
・April in Paris
・Summertime
・I Didn't Know What Time It Was
・If I Should Lose You

 1953年にトロントのマセイホールで行われたライブ録音。
メンバーは
・Dizzy Gillespie
・Charles Mingus
・Bud Powell
・Max Roach
収録曲は
・Salt Peanuts
・All The Things You Are / 52nd Street Theme
・Wee 
・Hot House
・A Night In Tunisia

参加メンバーの音源

Charles Mingus - Moanin'

Bud Powell - Anthropology (1962)

パーカーのその後

 パーカーは1955年3月12日ニューヨークのスタンホープ ホテルで、友人で後援者であるパノニカ デ ケーニッヒスヴァルター男爵のスイートで亡くなりました。
 正式な死因は大葉性肺炎と出血性潰瘍でしたが、パーカーは肝硬変の進行例もあり、心臓発作を起こしていました。
 検死官は、パーカー34歳の遺体を50から60歳の間と誤って推定したと言われており、当時の体のダメージから彼の壮絶な人生が伺えます。

 ガレスピーは葬儀の手配をし[てお通夜?の一般参列を認めたそうです。
ハーレム行列、追悼コンサートを組織した。
 パーカーの遺体は、母親の希望によりミズーリ州で埋葬されました。
 パーカーはミズーリ州リンカーン墓地のI-435に埋葬されているとの事。
機会があれば訪れて彼の功績に敬意を表したいと思い、いつか行きたい場所のひとつです。

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